大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート4 第2夜
2013年8月14日放送
(放送内容)
大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート4の第2夜。
本日は50年代のウエスト・コースト事情をお送りします。既にジェリー・リーバとマイク・ストラ―の活動、更にはニュー・オーリンズのドラマー、アル・パーマーEarl Palmerがロサンゼルスに活動の場をロサンゼルスに移したことが、ロサンゼルス・ロック・サウンドの基本となったことなどをお話いたしました。
今回は50年代初期に遡りまして、当時の大物、ジョニー・オーティスが作曲・プロデュースした曲から始めたいと思います。
Every Beat Of My Heat / The Royals
これはジョニー・オーティスが見出したロイヤルズに彼が書いた曲なんですね。ロイヤルズは後に、ミッドナイターズとなって、ザ・ツイストの大ヒット曲を出したバンドです。
このエヴェリ・ビート・オブ・マイ・ハートは、グラディス・ナイト・アンド・ピップスがカバーして大ヒットさせました。
ジョニー・オーティスは、プロデューサー、作曲家、アレンジャー、ビブラフォン・プレーヤー、ドラマー。あのー、ハウンド・ドッグのオリジナルのドラムも彼でしたね。
それだけでも十分なマルチ・タレントだったんですが、更に、バレル・ハウスというクラブ経営にもタッチしていました。
ロサンゼルスのバッツに有った、このバレル・ハウス、ここで活躍していたロビンズは、ウエスト・コーストにおけるバード・グループの第1号でした。
Turkey hop / The Robbins
えー、ターキー・ホップでした。50年の録音です。ロビンズもジョニー・オーティスが有名にしたグループなんですね。
次の曲もジョニー・オーティスがプロデュース。作者はリーバー・ストーラー。
That’s What The Good Book Says / The Robbins
えー、出だしのあのビブラフォンがジョニー・オーティスなんですけども、51年のザッツ・ファット・ザ・グッド・ブック・セズThat’s What The Good Book Saysという、まあ、そういう歌ですね。
リーバー・ストーラーがロビンズに書いた最初の曲です。会社はモダンレコード。
当時、ウエスト・コーストのR&B専門レーベルとしては最大の会社でした。ここでセールスを担当していたのは、レスター・シル Lester Sill。
そしてこのロビンズが後にコースターズとなるわけです。
ロビンズに続いてはバレルハウスのある、ワッツで結成されたグループ、ハリウッド・フレイムス。
メンバーには、ロバート・ジェームス・バードRobert James Byrd、後にソロとなるボビー・デイBobby Dayがおりました。
では、ハリウッド・フレームスで彼らのナンバーは、タバリン。
Tabarin / Hollywood Flames
51年に発表されたこの曲の作者は、マレー・ウィルソンMurray Wilson。
ブライアン、カール、デニス、このウイルソン兄弟 Brian, Dennis, and Carl Wilsonのお父さんが作った曲だったんですね。
マレー・ウィルソン、作曲家だったんです。ですから、息子ブライアンの音楽的才能にはすぐに気づくことができたんだと思いますね。では、ハリウッド・フレームスの次のナンバーは、バズ・バズ・バズ。
Buzz Buzz Buzz / Hollywood Flames
57年R&B5位、ポップでも11位となったヒット曲でした。何やら聞いたことのあるサウンドですけれども、この曲の作者はボビー・デイ、彼がこの年に独立して、自分で作った曲でデビューします。
Little Bitty Pretty One / Bobby Day
ボビー・デイのリトル・ビティー・プリティー・ワンでした。で、バック・コーラスは、サテライツとなっていますけれども、ハリウッド・フレイムズのメンバーを中心とした特別編成のグループでした。
Rockin’ Robin /Bobby Day
Over And Over / Bobby Day
ロッキン・ロビンはポップ・チャートの2位で全米のビッグ・ヒットでした。B面のオーバー・アンド・オーバーは、当時は41位でしたが、7年後の65年、デーブ・クラーク・ファイブによって1位となりました。
このロッキン・ロビン、オーバー・アンド・オーバーのドラムはアール・パーマーです。続いてのグループは、ランプ・ライターズ、曲は54年発表のヤム・ヤム。
Yum Yum / The Lamplighters
ドリフターズのハニー・ラブの歌詞を変えただけの曲なんですね。
このランプ・ライターズには、サーストン・ハリスThurston Harrisがメンバーにおりました。
で、彼も、ボビー・デイと同じく、57年、ソロになるんですね。そしてデビュー曲に選んだのが、ボビー・デイが書いて、ボビー・デイがシングル・リリースしていた、リトル・ビティー・プリティ・ワンでした。
Little Bitty Pretty One / Thurston Harris & The Sharps
オリジナルのボビー・デイは57位でしたが、このサーストン・ハリスは6位だったんですね。この辺も面白いとこです。オリジナル作者だからといって必ずしも大ヒットするとは限らないんですね。カバーの方が受ける場合があります。この曲のイントロのバス・ドラムが印象的なんですね。
このドラムも、アール・パーマーです。
先ほどかけましたボビー・デイのリトル・ビティ・プリティ・ワンも、ドラムはアール・パーマーではないんですね。それで、ボビー・デイは慌ててと言いますか、次の曲からアール・パーマーを起用してロッキン・ロビン、オーバー・アンド・オーバーのヒットを飛ばしたというわけです。サーストン・ハリスのバック・コーラスは、シャープスとクレジットされていますが、これもほとんど、ランプ・ライターズのメンバーでした。そしてそのままシャープスとしても、彼らはレコード・レビューするんですね。彼らの2枚目のシングルを聞いてみましょう。シャープス、ハブ・ラブ・ウィル・トラベル。
Have Love Will Travel / The Sharps
このギター・サウンドで分かりますけれども、この演奏はデュアン・エディとレベルスですね。
タイトルもデュアン・エディのハブ・ギター・ウィル・トラベルと、これをかけておりました。
シャープスのマネージャーはレスター・シル。そういうことで、コースターズのマネージャーもしていましたから、ウェスト・コーストのコースターズという感じで作ったんでしょうか。また、デュアン・エディのプロデューサーでもありましたから、この顔合わせとなりました。デュアン・エディのセッションで奇声がたくさん聞こえますけれども、それを担当していたのが、このシャープスでした。
彼らの奇声はレベル・イェールrebel yellという風にネーミングされていました。悪漢の応援というところですかね。エールを送るイェールですね。で、シャープスのメンバーはそのままで次に名前を、ザ・リビングトーンズと変えました。
Papa-Oom-Mow-Mow / The Rivingtons
62年に48位でしたけれども、コミックソングとしては定番中の定番となりましたね。この、パパ・パパ・パパ・ウママー・パパ・ウママウのママ版、ママ・ウマ・マウという曲も作りました。
Mama-Oom-Mow-Mow / The Rivingtons
えー出だしは面白かったんですけどね、これは100位以内には入らなかったんですね。しかし、コミックバンドというのはですね、このような曲は必ず作らなければいけないんですね。たとえ流行らなくても、パパを作ったら、ママを作らなければいけないと、これはコミック・ソングの掟なんです。私が作った掟なんですけどね。リビング・トーンズは偉いと思います。ボビー・デイはハリウッドフレームズ、サーストン・ハリスはランプライターズと、最初はグループに属していて、その後ソロとして独立するというのが、ほとんどのソロシンガーのパターンですね。90%と言って良いんじゃないでしょうか。最初からソロ歌手を目指したという人は、ちょっと、めったにいませんね。
The Deacon’s Hop / Big Jay McNeely
さて時代はまた50年代初期に戻ります。今かかっている曲は、ザ・ディーコンズ・ホップと言いまして、サックスを吹いているビッグ・ジェイ・マクニーリーの大ヒットです。49年にR&B1位となった初ヒットでもありました。ビッグ・ジェイ・マクニーリーは、ワッツ生まれのサクスフォーン・プレーヤーです。彼は時々歌も歌いましたが、バック・コーラスを専属で持っておりました。無名時代のプラターズが務めていたこともありました。専属のバック・コーラス・グループ名は、スリー・ドッツ・エンダ・ダッシュと言いまして、彼らのナンバーを聞いてみましょう。この、ディーコンズ・ホップの歌入りという感じです。
Let’s Do It (The Deacon’s Hop) / Big Jay McNeely, Three Dots & A Dash
レッツ・ドゥー・イット、括弧して、ザ・ディーコンズ・ホップという風になっていました。このコーラス・グループのメンバーだったのが、ジェシー・ベルビンJesse Belvinです。
で、彼はサン・アントニオ生まれなんですが、5歳の時に、ロサンゼルスに引っ越してきました。
52年、ベルビンはグループを脱退して、デュエットを組みました。
Dream Girl / Jesse & Marvin
ジェシー・アンド・マービンで、53年、R&Bで2位にランクされた、大ヒット曲でした、ドリーム・ガール。その後、ジェシー・ベルビンは作曲活動も行ったんですね。次の曲を作ったのもジェシー・ベルビンでした。
Earth Angel / The Penguins
55年にR&Bナンバー・ワンを記録した名曲、アース・エンジェル、ポップ・チャートでも8位と全米のヒット曲でした。このペンギンズも、バード・グループに入れられてますね。この曲を作ったジェシー・ベルビンは、56年にソロとして独立。デビュー曲がトップ・テン入りの大ヒット曲となりました。
Goodnight My Love / Jesse Belvin
ジェシー・ベルビンで、R&B8位に入りました、グッド・ナイト・マイ・ラブでした。この曲の人気は高くて、この後もたくさんのアーティストにカバーされて、スタンダード・ナンバーとなりました。続いても、ロサンゼルスで結成されたグループ、フレアーズ。彼らも、リーバー・ストラーの曲を歌っていました。シー・ウォンツ(ラブズの間違い)・トゥ・ロック。
She Loves To Rock / The Flairs
53年にリリースされました、シー・ウォンツ・トゥ・ロックでした。さすがに、リーバー・ストラーという感じがしますね。このグループにはリード・シンガーが二人いますが、これを歌っていたのは、リチャード・ベリーRichard Berryです。
もう一人のリード・ボーカルにコーネル・ガンター Cornel Gunterという人がいまして、このガンターは、プラターズのオリジナル・メンバーです。
そして、その後58年には、コースターズに加わった人ですね。コーネル・ガンター。このガンターの姉がシャーリー・ガンターShirley Gunter。
彼女が58年に発表したシングルが、女性ドゥーワップの元祖だった、という風に言われてます。シャーリー・ガンターとクイーンズ。
Oop Shoop / Shirley Gunter & The Oueens
55年、シャーリー・ガンターとクイーンズで、ウープ・シュープでした。ウープ・シュープと言えば、ウープ・シュープ・ソングが後に出てきますけども、R&Bチャートでは8位のヒットでしたが、ポップには登場しませんでした。カナダのクリュー・カッツが、シュ・ブームの後にこのウープ・シュープをカバーして、こちらはポップ13位のヒットとなりました。
ですから、曲自体は全米に知れ渡ったのですが、オリジナルのシャーリー・ガンターは、全米に知られるところまでは行きませんでした。で、シー・ウォンツ・トゥ・ロックのフレアーズ、コーネル・ガンターとリチャード・ベリーのメンバーの二人は、ジェファーソン・ハイ・スクールJefferson High School (Los Angeles)に通っていましたが、この学校はすごいんですね。
ジェファーソン・ハイスクール。たくさんのR&B関係者を輩出しています。チコ・ハミルトンChico Hamilton、それから先ほどのビック・ジェイ・マクニーリー、それでジェシー・ベルビン、ペンギンズの他のメンバー計3人、オリジナルプラターズの3人、後には、バリー・ホワイトBarry Eugene Whiteとか、メリー・クレイトンMerry Claytonもこの学校なんですね。
また、チェス・レコードで後に女帝の座に就いた、エタ・ジェイムス、彼女もこの学校なんです。で、シカゴの印象が強いんですけどもね、エタ・ジェイムスは、ウェスト・コースト育ちだったんですね。彼女の最初のヒット曲、ウォールフラワーを聞いてみましょう。
The Wallflower (Dance With Me, Henry) / Etta James
55年のR&Bナンバー・ワン・ソングでした。ウォール/フラワー。これは、ダンス・ウィズ・ミー・ヘンリーのアンサー・ソングですね、ミッドナイターズの。
プロデュースはジョニー・オーティス、そしてこの男性の声が先ほどのリチャード・ベリーなんですね、フレアーズの。
で、彼はいろんなセッションに呼ばれては歌っています。ロビンズの第9監房の反乱も、リード・ボーカルは、このリチャード・ベリーだったんです
Riot In Cell Block #9 / The Robins
メンバーでもないのに、リード・ボーカル取ったりと、この人は便利屋風に使われていたようですね。その後彼は55年にソロになりますが、バック・コーラスに地元の女の子を使います。地元で女の子が結成したグループは、ドリーマーズというグループでしたが、曲はダディー・ダディー。
Daddy Daddy / Richard Berry & The Dreamers
バック・コーラスのドリーマーズのメンバーは、ファニタ・バレット(?)Fanita James、グローリア・ジョーンズGloria Jones、ナネットとアネットのウイリアム姉妹Nanette Williams Annette Williams、そうなんですね、これがのちのブロッサムズThe Blossomsなんです。これに、ダーレン・ラブDarlene Loveが加わって、スペクター・サウンドを支えることになるんですが、レコード・デビューはリチャード・ベリーのバック・コーラスでした。えー、リチャード・ベリーの名前は知らなくても、この曲は誰でも知っていることでしょう。
Louie Louie / Richad Berry
57年に発表されましたルイ・ルイですね。これはリチャード・ベリーのオリジナルなんです。で、このオリジナルはヒットしなかったんですね。この後に、とにかくたくさんのグループがカバーしました。それで、新しいジャンルを作った曲となったんですけど、これもまた後の機会にお話ししたいと思います。リチャード・ベリー、コーネル・ガンター、このフレアーズが、後にメンバー・チェンジをしながらもグループを続けたんですね。で、61年にリリースしたのがこの曲です。
Foot Stompin’/ The Flares
R&B20位、ポップ25位でしたが、軽快なヒットソングでした。さて、55年、ロサンゼルスで結成されたグループに、ジェイ・ホークスTHE JAYHAWKSがありました。リード・ボーカルのジェームス・ジョンソンJames Johnsonが作曲した、ストランデッド・イン・ジャングル、これが不思議な曲なんですね。ジャングルで、男女カップルが迷子になるというストーリーで、女性は先にアメリカに帰ってしまって、別の男性に求婚されるという、そして、自分だけがジャングルに取り残されるて、現地人に囲まれるという、音楽も、ストーリーもジャングルとアメリカという2部構成の珍妙なる歌でした。
Stranded in The Jungle /The Jayhawks
この、ミーンホワイル・バック・イン・ザ・ステイツMeanwhile back in the Statesとか、ミーンホワイル・バック・イン・ザ・ジャングルMeanwhile back in the Jungleとか、こういうのも流行語になりました。この56年、R&B9位となったジェイ・ホークス、これのオリジナルをすぐさまカバーしたグループがありました。結成は40年代結成というベテラングループのキャデッツ。彼らのカバーの方が、なんとR&B4位で、オリジナルを超えるヒットとなりました。
Stranded in The Jungle / The Cadets
これ、出だしが傑作なんですね。イントロは打楽器だけで、歌い始めたら、元のキーよりも一音上だったという、まあ、これ自体がコミックソングですけれどね。キャデッツのストランデッド・インザ・ジャングルでした。最後はもう、泳いで帰ったとかね、クジラにつかまったとか、ほら吹きマドロスみたいな展開になってますけども、56年にカナダからロサンゼルスにおじさんを頼ってやってきた15歳の青年がいたんですね。その人がレコーディングをしたんですけども、バック・コーラスは、このキャデッツが務めたんです。その15歳の青年とは、ポール・アンカ。
Blau-Wile-Deveest-Fontaine/Paul Anka
何やら、ストランデッド・イン・ザ・ジャングルみたいな曲ですけど、ポール・アンカの自作なんですね。ワー・ワー・ワ・ディスコンティン、ていう歌なんですけども、このようなノベルティー・タイプのを作って、歌っていたわけですね。で、シングルのカップリング曲は、バラードのカバーで、アイ・コンフェス。
I Confess/ Paul Anka
ポール・アンカで、アイ・コンフェス、でした。このシングルはヒットはしなかったんですね。ま、しかし、15歳の青年の初レコーディングのバックが、本物のドゥーワップ・グループだったわけです。このバック・コーラスに、本物のキャデッツが来たということで、驚いたし、感激したと、ポールアンカは自伝で語っています。この時の体験が、ダイアナにつながったというのが、考えられることですね。
さて、話を再びキャデッツに戻します。このグループに、アーロン・コリンズというメンバーがおりました。で、彼には二人のベティとロージーという妹Betty and Rosie Collinsがいたんですね。で、兄貴は妹たちに曲を書いてデビューをさせました。それが、ティーン・クイーンズ。
Eddie My Love/The Teen Queens
56年、R&BA2位、ポップでも14位となるビッグ・ヒット、エディ・マイ・ラブでした。すぐさま、フォンテン・シスターズやコーデッツもカバーして、チャートのトップ20に、3曲もチャート・インしていたという、ものすごいヒットとなったんですね。
され、ロサンゼルスのR&B専門レーベル、スペシャルティには、リトル・リチャードやラリー・ウイリアムスがいまして、ヒットを飛ばしていましたけれども、そこに51年、ゴスペル・グループの、ソウル・スターラーズ The Soul Stirrersが契約しました。
このグループの活動は古く、1936年の録音があります。1枚目のシングルA面はお馴染み、ピース・イン・ザ・バリーPeace In The Valleyでしたが、B面を聞いてみましょう。ジーザス・ゲイブ・ミー・ウォーター、新しいボーカリストは、サム・クック。
Jesus Gave Me Water / The Soul Stirrers
51年、発表されました、ソウル・スターラーズのジーザス・ゲイブ・ミー・ウォーターでした。録音されたのはロサンゼルスのユニバーサル・スタジオですけれども、次は55年、ロサンゼルスのマスター・レコーダーズで録音されましたゴスペル・ソング、ワンダフル。
Wonderful / The Soul Stirrers
これも、ゴスペル・ソングでワンダフル。これを原型にして、ポップ調の曲を作るんですね。で、プロデュースはリトル・リチャードでおなじみの、バンプス・ブラックウェルRobert Alexander “Bumps” Blackwell。ニュー・オーリンズの、コズィモ・スタジオで録音されましたラバブル。
Lovable / Sam Cooke
ラバブル、サム・クック(Birth name Samuel Cook Also known as Dale Cook)でした。このセッションで、サム・クックは初めて、アール・パーマーと出会いました。
ところが、スペシャルティーの社長は、サム・クックがこのようなポップ調の曲を歌うのを好まなかったんですね。
で、サム・クックとプロデューサーのバンプス・ブラックウェルは解雇されました。
しかし、最後のお土産とばかりに、57年6月の最後のセッションの音源を彼らにあげたんですね。で、それをできたばかりのレコード会社、キーン・レコードに持ち込まれて、超ビッグ・ヒットとなったのは、次の曲でした。
You Send Me / Sam Cooke
シングルとしては3枚目にリリースされたんですけど、これがサム・クックにとって初のチャート・インの曲で、R&Bではもちろんのこと、なんと、ポップ・チャートでも1位になりました。R&Bアーティストが、ポップ・チャートの初めて登場して、それが1位になるというのは、非常に珍しいケースだと思います。さらにサム・クックは、純粋なゴスペル・シンガーだったわけで、ポップへ転向して、成功を収めた最初の人とも言われています。
このユー・センド・ミー、セッションではドラマーが、先ほど申しましたアール・パーマー。
で、ギターはルネ・ホールRene Hallが参加しています。
で、この二人はサム・クックと、これから長い付き合いになります。特に、ギターのルネ・ホールは、このサム・クックセッションには、無くてはならない人という風になりました。57年に新しくできました、キーン・レコード、たくさんのアーティストがおりましたが、ユー・センド・ミーのレコード番号の次が、ボブ・フロギー・ランダーズ・アンド・ザ・カフ・ドロップスという、ま、いかにも架空のバンドであることが見え見えの名前のグループですが、タイトルは、リバー・ロック。
River Rock / Bob “Froggy” Landers & The Cough Drops
えー、フログ・マン・ヘンリーClarence Frogman Henryのパロディーなんですけどね、作ったのはルー・アドラーとハーブ・アルパートHerb Alpert Lou Adler。
ハイスクールの先輩・後輩であるアドラーとアルパートは、このキーン・レコードが音楽業界の最初のかかわりでした。同じく、キーン・レコードにいましたサルマス・ブラザース、彼らに二人が書いた曲が、サークル・ロック。
Circle Rock / Salmas Brothers
これはB面だったんですけどね。アドラーとアルパートの作品でした。ハーブ・アルパートは、ハービー・アルパートとして、シングル・デビューもしてるんですね、キーン・レコードから。得意のトランペットで、ハリー・ガリー。
The Hully Guly / Herbie Alpert & His Sextet
これもB面だったんですけどね、既にティファナブラスの片鱗が感じられます。
次に、アドラーとアルパートは、作家だけでなく、プロデュースもやるんですね。で、この二人がプロデュースしたのがサム・クック。
Sam Cooke “Everybody Likes the Cha Cha Cha”
R&B2位、ポップ31位のヒット。エブリバディ・ラブス・チャチャチャでした。この3人によるサム・クックの名曲は次々に誕生します。
Only Sixteen / Sam Cooke
55年R&B13位、ポップ28位のヒット、オンリー・シックスティーンでした。次の曲が3人の共作としては、最後のナンバーとなりました。
Wonderful World / Sam Cooke
R&B2位、ポップ12位のワンダフル・ワールドでした。これが、サム・クックのキーン・レコードにおける最後のヒットになりまして、この後、RCAレコードの移籍しまして、活動場所もロサンゼルスからニューヨークへと移ります。
ウェスト・コーストのシーンでは、50年代はジョニー・オーティス、中期がリーバ・ストーラー、そして50年代後半には、ルー・アドラーとハーブ・アルパート。彼らがウェスト・コースト・サウンドを支えたプロデューサーたちでした。この後にも、続々登場しますが、それは次の機会にお話ししたいと思います。それではまた明晩。