大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート2 第5夜
2012年9月7日放送
(放送内容)
本日は、本シリーズの最終回。引き続きましてニューヨークの話からですが、1956年エルビスがハートブレークホテルで登場した時と全く時期にニューヨークのデッカレコードから新人がデビューしておりました。
Silly Willy / Bobby Darin
歌っているのはボビーダーリンです。作詞がドンカーシュナーDon Kirshner、作曲がボビーダーリンの自作の歌なんですが、デビューのころはフォークソングとかカリプソを歌っていたようですね。
ボビーダーリンはレコードのデビュー前はCMのジングル制作などを行っていて、そこで同じ仕事をしていたコニーフランシスと知り合いました。
そしてカーシュナー、ダーリンのコンビが彼女に曲を贈りました。
My First Real Love / Connie Francis
これは、コニーフランシス4枚目のシングルとして発売されたんですけれども、バックコーラスがずいぶんワーワーッと言ってましたが、これはどうやらボビーダーリンが一人で歌っていたそうです。この後、アトランティックレコードとボビーダーリンが契約するんですが、とにかく器用な歌手なんですね。ボビーダーリンていうのは。
何でも歌えると。それでアトランティックとしては、どの路線で売り出そうかということで、最初はやはり、エルビス路線を考えたようなんですね。というのは最初のレコーディングが、ナッシュビルのブラドリースタジオで行われていたんです。
I Found A Million Dollar Baby/Bobby Darin
ロックンロールタイプの曲ではなくて古いポピュラーソングの新しい解釈というのがいかにもアトランティックらしいですけども。スタジオはナッシュビルのブラッドリーです。さらにコーラスがジョーダネアーズがバックコーラスなんですね。
ですから、やはりここはエルビス路線を考えていたんだと思います。このジャズ路線は、後にボビーダーリンが新境地を開拓することになるんですけど、これはあとのことです。ということでアトランティック内部で、ボビーダーリンはジャズで行くのかロックで行くのかという分裂がありました。アトコレ―ベルの責任者のハーバーアブラムソンHerb AbramsonとプロデューサーのジェリーウエックスラーJerry” Wexler はロックンロール路線に大反対でした。
それを押し切ったのは社長のアーメットアーティガンで、天の声で振り切った、という風に言われています。それがロックンローラー、ボビーダーリンを誕生させました。
Splish Splash /Bobby Darin
グレートボールズオブファイアーGreat Balls of Fireですね、これね。お聞きのとおりステレオなんですね。これはロックンロールレコードとして初めてステレオ盤で売り出された曲だとも言われております。やはりこれはトムダリオンが8チャンネルレコーダーを持っていたからだと思うんですけどもね。ヒット曲のタイトルが織り込まれていたこの曲は、ポップ3位でしたが、R&Bではナンバーワンでした。やはり、アトランティックはこの分野での販売力が強かったということなんですかね。アトランティックレコードがエルビスを買い損なったということは何度も申し上げましたけども、それの答えがこれだったのではないかと思いますね。アトランティック初の白人ロックンローラーとなったわけですね、ボビーダーリンは。彼はニューヨーク発のロックンローラーとなったといってもいいと思うんですね。ニューヨークの音楽産業というのは巨大ですからエルビスが登場して続々ロックンローラーが出てきても、ニューヨークから見ればごく一部なんですね。ニューヨークのルーレットレコードroulette recordsとかケーデンスレコードCadence Recordsがありますけれども、原盤は地方で作っていたもので、ニューヨーク制作のロックンロールレコードというのはほとんど無いわけです。
また、さらにこの頃はニューヨークにロックンロールのギタリストがいなかったということもありましたね。それからエルビスから解放されたリーバストラが、58年にニューヨークにやってきたということも、ニューヨークのロックンロールシーンには大きかったんではないかと思います。コースターズとボビーダーリンのミュージシャンは、似たような人たちがやっておりました。さて、ボビーダーリンの次の曲がロックンローラーとして決定付ける曲となりました。ギターを弾いていたのはアルカイオラAL CAIOLAです。
Queen Of The Hop / Bobby Darin
サックスはキングカーティスKing Curtis、左で聞こえていたのがアルカイオラでした。
58年10月ポップでは9位でしたが、R&Bでは6位でした。相変わらずR&Bの方が受けがよかったわけですね。アルカイオラはホリーの名作レーブオンのギターも弾いてるんですね。
バディーホリーがニューヨークで録音したものです。ですからアルカイオラはニューヨークにおける最初のロックンロールギタリストと言ってよいでしょうね。さて、58年になってようやくニューヨーク生まれのロックンロールサウンドが登場したわけですけれども、それ以前のニューヨークはドゥーワップグループの花盛りだったんですね。パート1の一回目で聴いていただきましたけれども54年のこの曲がブームの火種になったと一般的なロックの歴史本では言われております。
Sh-Boom / The Crew-Cuts
アトランティックレコードのコーズの曲を白人グループがカバーして、ポップチャートの1位になったんですね、この曲、クリューカッツですけど。この1位というのがキーポイントなんです。というのも、ここまで大ヒットしますと業界は無視できないんですね。そこで続々と白人のR&Bのカバーが登場したということですね。フォンテンシスターズThe Fontane Sistersとか、マクガイヤシスターズThe McGuire Sistersも聴いてもらいました。
そうしますと白人シンガーでもドゥーワップスタイルでデビューを飾るという人が出てきます。
While My Dream/The Tokens
歌っているのはニールセダカですね。
彼も56年がデビューなんですね。初ヒットが出るのが58年の12月ですから、彼も2~3年間の潜伏期間があったということですね。このドゥーワップの流れに新星が登場します。これがチャートに登場したのがハートブレークホテルと同じ56年の1月のことでした。
Why Do Fools Fall ln Love / Frankie Lymon & The Teenagers
R&Bでは当然のごとく1位だったんですけど、ポップでも6位を記録しましたね。R&Bチャートではハートブレークホテルは3位でしたから、ニューヨークではこちらの方に人気が集まっていたということですね。リードシンガーのフランキーライモンはこの時なんと、13歳です。実際は14だったと自分では言ってるようですけど、まさにティーネージャーズだったということですね。このドゥーワップ人気というのはアランフリードAlan Freedなどの有名DJの力が大きいんですね。
白人家庭の子供たちも、このような音楽を知ってしまったので、大人が聴いているようなのんびりした歌は聴いていられなくなったということですね。このようなブームの中に、単にコーラスだけでなく、ドゥーワップにラテンフレーバーを入れた楽曲が登場します。既にペレスプラードなどのマンボが大流行してましたからね。
頭にターバンを巻いたターバンズというグループがあるんですけども、ラテンフレーバーを入れた大ヒット曲を出しました。55年のことでした。
When You Dance /The Turbans
この曲、リズムアンドブルースチャートでは3位と大ヒットして、ポップでは33位だったんですけれども、21週間もチャートされたのですから、5ヶ月間もチャートされたということですね。根強い人気があって、このタイプのサウンドが流行し始めました。56年になりましてフォーラバーズがこのタイプに挑戦いたしました。
You’re The Apple Of My Eye/The Four Lovers
「冷たくしないで」のオーティスブラックウェルの曲なんですけれども、ポップで62位にチャートされました。
リードボーカルはフランキーヴァリ。
彼の声が次にチャート上で聴けたのは、ここから6年後の1962年のことでしたね。グループ名はフォーラバーズからフォーシーズンスと変わっておりましたけどもね、そん時は。次もまた同じタイプの楽曲です。グループ名はグラジオラス。
Little Darin’ / The Gladiolas
このグループのリーダーのモーリスウイリアムスが作った曲です。この曲をカナダ出身のコーラスグループがカバーしました。
Little Darin’ / The Diamonds
クリューカッツと同じカナダ出身のダイヤモンズ。ポップ、R&Bともに2位になりました。このサウンドのラインを受け継いでダイヤモンズと同じくカナダ出身の若者が自作の曲でデビューします。57年7月に登場した時に、この若者は当時14歳でした。
Diana / Paul Anka
このダイアナはポップでもR&Bでも1位になったんですね。当時日本にポールアンカファンクラブというのがありまして、そのメンバーだった朝妻一郎さんは、このサウンドが自分の青春の音だという風に語っておられますが。
フランキーライモンが13歳、ポールアンカが14歳と、1年前のエルビスが21歳ということで、業界は驚いたばかりだったんですが、13と14が出てきたんですね。
56年のエルビスの21歳が驚異的だったということは他のベテラン勢の年齢を見ると分かるんですね。シナトラが当時41、ペリーコモ44、ビングクロスビーにいたっては、55ですから。
チャートナンバーワン獲得者としてはエルビスが21歳というのは驚異的だったんです。そこへ今度は一気に13、14ですからね。また、11歳になっていたブレンダリーもこの頃登場してますから。
まさにここからティーネージャーの時代が始まりました。ポールアンカのサウンドを作ったのはドンコスタDon Costaです。
ベースとバリトンサックスのユニゾンというのが特徴と言われてんですね。ボンツボボボボンッつうのをベースとバリトンがユニゾンでやると、さらにここまで打楽器がトンココランカントンココランとやっていたんですけども、ユニークだったのは、ギターがそのリズムを担当してメロディーを付けていたんです、ギターでね。トゥンククランカントゥンクンランタンてやつです。これを弾いていたのがアルカイオラなんですね。彼はこのフレーズですね、トゥンククランカントゥンクンランタン、他のシンガーのセッションでもジャンジャン弾いたんです。
Dream Lover / Bobby Darin
この曲でピアノを弾いていた人も、この同じタイプの曲を出しました。
Oh! Carol /Neil Sedaka
このキャロルはキャロルキングのことだということは随分有名な話になっているようですけども、このキャロルキングもポールアンカのダイアナに感激してすぐにドンコスタの下に走ったんですね。
そして彼のアレンジでデビュー曲を発表しました。
Under The Stars / Carole King
トゥンククランカントゥンクンランタンのギターフレーズの話を続けましょう。アルカイオラは、ジャンジャンこのフレーズをあちらこちらのセッションで弾きました。
Lonely Teardrops / Jackie Wilson
この曲を作ったベディー・ゴーディーBerry Gordyは、後にモータウンレコードを作るんですけども、このことは皆さんご存知のとおりですけど、このときはまだ作曲家でした。ドゥーワップのクレスツも。
The Angels Listened In / The Crests
日本では九ちゃんでお馴染みの。
Good Timin’/ Jimmy Jones
ブライアンハイランドも。
Four Little Heels / Brlan Hyland
そして極め付きは。
Wheels / Al Caiola
ここまで脇役であったギタースタイルは、ついにメインとなったヒット曲となるんですね。これやってますと番組終わりますので、この辺にしますけども、このサウンドが60年代ポップスということになったんですね。原点はダイアナで、ドンコスタで、アルカイオラだったというわけです。さてここまで来ますと、さしものロックンローラーも抵抗しきれなくなったんですね。トレンケッタイオーナイローンと歌っていたジョニーバーネットも。
Dreamin’ / Johnny Burnette
ビーバッパルーラのジーンビンセントも。
Mr Loneliness/Gene Vincent
サマータイムブルースのエディコクランも。
Cherished Memories / Eddie Cochran
なんとこの邦題は、[コクランのズンタタッタ]
でした。さてニューオリンズで素朴なローデローデムスプロデュを歌っていたロイドプライスまでも。
I’m Gonna Get Married /Lloyd Price
ニューオリンズの臭いは残ってますけども、アレンジはドンコスタでした。ドンコスタという人はニューオリンズサウンドまでも、都会的なサウンドに仕立て上げるんですね。バディーホリーも結婚した58年の秋ごろにはニューヨークに移り住んでいたんですね。クリケッツのメンバーはテキサスのラボックを離れたくないということで残ったんです。ですからバディーホリーとクリケッツは、もう別れ別れになっていたんです。ホリーは既にソロの道を歩んでいたんです。58年10月ニューヨークで録音された曲です。
It Doen’t Matter Anymore / Buddy Holly
いけてますね。これ悪くないんですね。これでバディーホリーの特徴が出てますね。作曲はダイアナのポールアンカです。よくバディーホリーが死んで、ロックンロールが死んだと言われますけども、もう58年暮れにホリー自身も多少路線変更の兆しがあったんですね。ただ59年に音楽キャリアを閉じなければいけなかったので、ジョニーバーネットや、ジーンビンセント、エディーコクランのように如実な変化が感じられる曲が存在していないというわけですね。
これが神話として存在できる要因なのではないかと皮肉屋である私は見ております。1956年に始まったロックンロール時代は59年に幕を閉じたというわけです。
Bye Bye Elvis /Gene Harris
どうしてこうなったかというのは、諸説あるんですが、私はエルビスの徴兵が一番大きかったと見ています。
1957年の12月20日にエルビスに徴兵命令が届きます。翌58年の3月に入隊しました。56年の1月に華々しく登場して57年も3部門1位が3曲もあったのに、その年の暮れに徴兵命令が来たんですね。つまりエルビスのメジャーでの実働はたったの2年間だったんです。58年の3月から丸2年、キングエルビスは音楽界に不在でした。レコードは出ていてヒットしていたんですけどね、それは録音していたものでしたから映画も、テレビ出演もライブ活動も入隊中は一切ありませんでした。やはりキングの不在でロックンロールシーンにぽっかりと穴が空いたというのは否めない事実だと思うんですね。それの証拠といえるかどうか分かりませんが、58年の夏以降ですね、それまで日常茶飯事のように続いていた3部門制覇、この記録が突然に途絶えたんです。59年にはゼロになりました。エルビス入隊だけがロックの退潮のすべての原因だとは言いませんが、ただエルビスの入隊とポップス系アーティストが大挙して登場したのは同じ1958年であったわけです。しかしロックンローラーがポップスに流れるというその前兆は実はハートブレークホテルのころにあったんです。ここでいよいよパットブーンの登場です。彼はエルビスよりも1年前にポップチャートに登場してますから、本来は先に取り上げる人なんですけども、ここまで取っておいたのでした。
Until You Tell Me So/ Pat Boone
53年の5月、これがパットブーンの最初の録音です。ところはナッシュビルのブラッドリースタジオ、ゴスペルのメロディーに自分で詩を付けたということですけどね。ビンクロ調の、われわれが知っているクルーナーのパットブーンだったんですね、もともとね。パットブーンは生まれはフロリダですが、2歳の時にナッシュビルに移ってきました。つまりエルビスと同じテネシー育ちということですね。そして54年にレコード会社と契約したんですけども、地元のナッシュビルの少し北のほうにありますギャラティンというところがあって、そこにドット・レコードという会社があったんです。このころはもうエルビスはサンレコードから出ています。このドットレコードDot Recordsの社長は、元レコードショップのオーナーなんですね、これはまた。で、ランディーウッド Randy Woodという人ですが、55年の2月にパット用のデビュー曲を探し手来るんですね。
で、電話で聞かせるんですよ、「これがお前のデビュー曲だ」って。パットはそれを聴いて、今まで利いたことの無い音楽だったと言うんです。でも社長はこれを「絶対に売れるんだから」という一言を信じて、パットは、ホテルで一晩でこれを覚えてレコーディングしたということです。パットに渡されたR&Bのレコードというのはこれでした。
Two Hearts two Kisses / Otis Williams & His Charms
この曲はオーティス・ウイリアムス、チャームスのトゥーハーツという曲です。これ、ほんとにパットは歌えんのかと思いますけどね。ランディーウッドは絶対にこれなんだということでナッシュビルでは、R&Bのサウンドが録音できないということで、わざわざシカゴへ入ったんですね。本物のR&Bのバックを使って、それでこの曲をカバーさせました。
Two Hearts two Kisses / Pat Boone
そういう背景を知るとなんか本当に必死で歌ってるって言う感じで、自分はR&Bの雰囲気を何とか自分の中に取り入れようということで、本当に必死で覚えたんだそうです。社長の予言どおりに、この曲は55年の4月に登場して16位にランクされました。二人は手を取り合って喜んだんだそうですね。エルビスより前にパットブーンがナショナルチャートに登場したということになります。そして次のエインザッタシェイムですね。これがナンバーワンヒットとなってビルヘイリーに続くロックンロールアーティストとして脚光を浴びたのでした。
Ain’t That A Shame /Pat Boone
これがポップチャートで1位となったんですね。R&Bでも14位だったんです。これ、意外ですね。つまり、当時のR&Bファンからも受け入れられていたということになるんですね。われわれ、後のクルーナーのパットブーンをいやっというほど知ってますから、なかなかこの55年時点でのパットの受け入れられ方というのをちょっと理解しがたいんですね。ただ、冷静に考えて見ますと、この時点で、男性シンガーで、誰と比べるかといいますと、ペリーコモやエディーフィッシャーだったんですよ。
確かに彼らに比べれば、このパットブーンは十二分にワイルドなロックンローラーだったんですね。ビルヘイリーに続いて、若者はパットに熱中したんです。新たなロックンローラーだったんですね彼は。55年の夏の時点では、もちろん、エルビスも登場してませんしね。RR&Bのオリジナルアーティストもポップチャートには出てきてません。ですから、これでも十分に衝撃的だったんですね。われわれも、これではちょっと生ぬるいなと感じるのは、後ででてきているものと比較しているからなんです。55年のロックンローラーパットブーンは、もうナンバー・ワン・シンガーですから、こうなりますと、社長もパットも当然行け行けとなるわけですね。次のシングルと死して準備されたのもまたまたR&B、アップテンポ、リトルリチャード、トゥッティフルッティでした。
Tutti Frutti / Pat Boone
おそらく、これが56年1月でなかったらトップテンには入っていたと思いますね。しかしこれが運悪くエルビスの登場と時期が重なったんです。このトゥッティフルッティは12位止まりでした。つまりその上にはハートブレークホテルがいたんですね。前の曲を14位までにしてくれたR&Bチャートなんですけど、この曲は100位にも入れてくれませんでした。つまりこの時点での対象がペリーコモからエルビスに変わったということなんですね。このレコードを出す前にはこの状況は全く読めなかったわけです。ここで椿事といいますかね、時代のいたずらが起きたんです。ディスクジョッキーがトゥッティフrッティのB面をかけ始めたんですよ。そうしたらあれよあれよという間にチャートが上がってですね、なんと4位まで上がったんです。それがこの曲でした。
I’ll Be Home/Pat Boone
ドゥーワップのフラミンゴズのカバーなんですけれどもね。
事の発端はDJがAB面を逆にしたというところでたまたまエルビスのカウンターとなってしまったんですね。これは結果的なんですけども、エルビスの登場が、パット彼本来のクルーナー歌手に戻してあげたという風に言えるんですね。エルビスが出てこなければ社長のランディー・ウッドはR&B路線続けていたんですよ。というのは、このヒットがあったにもかかわらず、まだ次のシングルはまたリトル・リチャードの曲を出したんですね。またそれは8位までは行ったんですが、R&Bではまたノーチャートでした。もうファンの耳のほうが確かだったんですね。思い起こせばサン・レコードのサム・フィリップスも、エルビスのクルーナータイプの曲は全く出しませんでしたよね。ですから、1955年という年がそういう年だったんですね。55年がまさに幕末、56年が明治維新という、そういう感じですね。この後エルビスVSパットという対立構図で言われるようになったんですけれども、むしろパットはエルビスの対抗馬ではなくて先導役を務めたことになったんです。これはですね、本人もインタビューでそう語っています。この後パットブーンはバラードのナンバーワンヒットが続いて、いよいよ映画初出演ということになって、映画バーナディーンBernardineの挿入歌として、選ばれたのが1931年に出版されていた古いスタンダード曲で、これが彼の代表曲となりました。
Love Letter in The Sand /Pat Boone
もちろんポップスではナンバーワンでしたが、R&Bでも12位でしたね。R&Bファンもクルーナーとしてのパットを受け入れたということではないですかね。ところで、このパットブーンのサウンドですが、デビューの時から彼を支えていた人がいました。ビリーボーン。
Sail Along Silvery Moon / Billy Vaughn
ポール・アンカの陰にはドン・コスタがいたように、パットブーンの成功の陰にはビリー・ボーンがいたというわけでした。そして58年、DJのアラン・フリードが暴動を扇動したとして逮捕されます。手錠をかけられた姿が、テレビで映し出されたりしましたね。そして翌59年のペイオーラスキャンダルで失脚して、ロックンロールを支えてきたDJの時代が終わります
Three Stars / Eddie Cochran
同じく59年の2月の3日にバディーホリーが飛行機事故で亡くなって、いまバックでかかっているのはそれを悼んで、エディコクランが歌った歌です。
ところが、そのコクランも60年の4月の17日、ジーンビンセントとの英国ツアー中に自動車事故でなくなるのです。それにしてもこの自動車に乗っていたのがジーンビンセントとエディーコクランの二人というのは、映画女はそれを我慢できないを思い起こさないわけにはいかないですね。非常に因縁を感じます。エルビスは入隊力後に58年6月10日と11日、軍隊からもらった休暇の二日間でロックンロールファンに最後のメッセージを届けようと汗だくで歌いました。
A Big Hunk O’ Love/ Elvis Presley
3ヶ月以上も歌っていなかったエルビスの情熱がほとばしってますね。まさに汗、汗、汗のセッションです。
I Need Your Love Tonight / Elvis Presley
エルビスはハートブレークホテルを録音したナッシュビルに戻ってきました。2年ぶりのことです。また、このときはブラッドリー・スタジオのAティームと一緒に演奏しています。
I Got Stung / Elvis Presley
スタジオはハートブレークホテルのRCAではなく、エバリーが使っていたBスタの方です。2年後にここに帰ってくることになるんですね。また、これダブルドラムなんですね、これは。ロックンロール史上これが初だったと思います、ダブルドラムは。もう、60年代のエルビスサウンドがここで始まっていたわけです。
A Fool Such As I/ Elvis Presley
59年にロックンロール時代は終焉を迎えましたが、エルビスは60年に、エルビスズバックで復活するんです。キングだけはいったん隠れただけで復活するんです。
アメリカンポップスデンパート2、5日間にわたりましてお送りしました。今回はロックンロールの隆盛から衰退まででございました。エルビスから始まりましたロックンロールの流れは、ここで途絶えて、アメリカはシックスティーズポップの時代となるわけです。しかしこのロックンロールの流れは、受け継いだ国があったんですね。それがイギリスです。ただし、アメリカの人は1964年のお正月までこのことは知らなかったです。これに関しては、またいつか機会がありましたら語ってみたいと思います。大瀧詠一です。それではまたいつの日か。