大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート2 第4夜
2012年8月30日放送
(放送内容)
アメリカンポップス伝パート2の第4夜。本日はまず、インストロメンタルブームから始めてみたいと思います。
Raunchy / Ernie Freeman
ローンチー、アーニーフリーマンでした。オリジナルのサンレコード、ビルジャスティスがこの曲を三部門制覇をしたというお話は以前したと思いますけども、このアーニーフリーマンのカバーも、なんとカントリー11位、ポップ4位、R&B1位と、これも三部門制覇だったんですね。
オリジナルとカバーの両方とも3部門制覇というのはちょっと例が無いんじゃないか、と思いますね。ですから、この曲は、この時代のいかに大ヒットであったのかということだと思います。アーニーフリーマンはジャズの人なんですけど、こういうインストヒットを出すという、こういう傾向もこの辺りから見られてきたということでありました。このドラムもアルパーマーが叩いております。続いては59年のアーニーフィールズのインストヒットをご紹介します。これも6弦ギターはルネホールRene Hall 、ドラムはこれまたアルパーマーEarl Palmer。
In The Mood / Ernie Fields Orchestra
亀淵昭信さんのいくつになってもロケンロールのテーマとしても使われていましたね。
リッチーバレンスなどと同じミュージシャンなので同じサウンドでありました。
エディーコクラン、リッチーバレンスというウエストコースとサウンドのドラムサウンドは、ニューオリンズのアルパーマーが作っていたということなんですね。このインザムードのスタジオ、録音されたスタジオはゴールドスタースタジオでありました。
次もまたゴールドスタースタジオから飛び出したヒット曲でした。ただ、最初はB面だったんですね。それがひっくり返されてエアープレーされて、あれよあれよという間にナンバーワンヒットとなりました。
Tequila / The Champs
この最後のエコーはゴールドスターのエコーなんですね。リッチーバレンスのラバンバは、この年の12月ですから、ラテン系のヒットということでは、こちらの方が先でした。
このレコードが出ましたチャレンジレコードですが、57年の設立で、この曲は58年2月に登場、ポップナンバーワン、R&Bナンバーワンという、両方でナンバーワンとなったんですね。でもB面でしたから自信は無かったんですね。これが1位になったんで、なんだこんなんで1位になるのかということでじゃんじゃんいろんな人がインストのジャンルに入ってくるようになったんです。翌年の59年には、一大ブームとなって、ものすごい数のインストバンドが登場します。さて、このテキーラの1ヵ月後にチャートに登場したのが、デュアンエディーでした。
Movin’N’ Groovin / Duane Eddy
チャックベリーのグランナイダハンサムマンのイントロでしたね。
ロサンゼルスから大体600キロくらいですか、弱ですけれども、東にフェニックスという町があります。バイザタイムマイゲットゥティーネックスシーユーライジングという、あのフェニックスですけれども、ここにもサムフィリップス、ノーマンペディーと並んで、有名なプロデューサーがおりました。
その人の名は、リーヘーゼルウッドLee Hazlewoodといいまして、彼はこのフェニックスでDJをやってました。
そのときにバンドと知り合って彼らの録音の手伝いとか、プロデュースをやったりしていたわけです。そのときに高校生だったデュアンエディーがいたというわけですね。彼は最初歌を歌っていたんですけども、ギタリストに転身したらどうかということをリーへーゼルウッドが勧めて、それでこのようなヒットということになったわけです。低音源の、あれですね、ドゥードゥ、ドゥードゥとかいう、こういうのをフィーチャーする奏法を勧めたのもリーへーゼルウッドだったという風に言われています。このデビュー曲は58年の3月に発売されたんですけども、チャートは72位と振るいませんでした。そこでリーへーゼルウッドとデュアンエディーは第2弾を考えたんですね。そのA面というのが大ヒットしました。
Rebel Rouser /Duane Eddy
このエコーはドラム缶エコーであるということを81年の笛吹き童子ショーでお話をいたしました。これは、ポップ6位、R&B8位のビッグヒットとなって、デュアンエディーはこの後、続々とヒット曲を出しましてギターインストの王者の座を獲得したわけです。彼の、このブーンブーンというギタースタイルですけども、これはトォワンギーギターといわれまして、バックバンドはこのヒットから、レベルズ、これは、アー、曲名言うの忘れましたね、レベルラウザーというタイトルで、それでレベルズという風にバックバンドに名前を付けたんですね。このレベルというのは、アールイービーイーエルのレベルで、不良手名意味ですかね、日本語では。理由なき反抗のレベルウィズアウトアコーズのレベルはこのレベルなんですね。
コーラスとサックスは入ってるんですけれど、これはロサンゼルスのゴールドスターでダビングされました。ですから、ここで使われていたエコーも、ゴールドスターのエコーなんですね。騒いでいる人たちは、ザ・シャープスと言いまして、ただ騒いでいるだけじゃなくて、レコードを出してるんですね。デュアンエディーには、リーヘーゼルウッドともう一人レスターセルというプロデューサーがいました。レスターは、以前、このシャープスのプロデュースをしていたんですね。おそらく、その関係から呼んだんだと思います。ここでサックスを吹いていたのは、ジル・バーナルという人で、彼もレスターシルがつれてきた人でした。
Easyville / Gil Bernal
デュアンエディーのバンドにはこの後、スティーブダグラス、ラリーネクテル、ジムホーンなど後のウエストサウンドコースとの中核となるミュージシャンがたくさん集まってくるわけですけれども、まさにいりーへーゼルウッドはメンフィスのサムフィリップス、ニューメキシコのノーマンペティーと同じような存在だったといえると思います。
さて、現在流れているのがRebel-Rouser でサックスを吹いているジル・バーナルという人なんですが、この人の54年の曲です。このシングルはLAのスパークレーベルという会社~リリースされたものです。デュアンエディーの共同プロデューサー、レスター・シルもこの会社の共同経営者でした。中心人物はジェリー・リーバーとマイク・ストーラー、リーバーストラーのコンビだったんです。
ではロックンロール時代の前のウエストコーストはどのような音楽状況だったのか。それについてちょっと語ってみたいと思います。1950年代の前半に戻ってみましょう。
Easy Like / Barney Kessel
50年代の西海岸ではウエストコースとジャズといわれたブームがありました。51年にはコンテンポラリーレコード、ここにはアートペッパー、シェリーマン、バーニーケッセルがいました。
52年にはパシフィックジャズレコードが設立されまして、ここにはジェリーマリガンやチェット・ベイカー、ポールデズモンド、そういう人たちがいたわけですけれども、徐々に時代が進むにしたがってウエストコースト・ジャズの中から、ロックンロールのセッションに参加する人が出てきたということですね。
リッキーネルソンの時にも話しましたが、このバー二ー・ケッセルは早めにロックンロールのセッションに参加した人でした。
またジャズバンドでドラムを叩いていたジョニーオーティスという人がいますが、この人がR&Bのプロデュースや録音に参加するようになります。そして彼がプロデュースしてドラムを叩いていたのがこの曲でした。
Hound Dog/Big Mama Thonon
イオンオーを多用するのもリーバスストラの特徴ですね。リリースされたレーベルは中部のピーコックレコードだったので、僕はてっきりチューブの音だと思っていたんですけれども、録音されたのは、エルビスが使っていたロサンゼルスのラジオレコーダースのスタジオで録音されました。
ですからエルビスの監獄ロックは、図らずもオリジナルのハウンドドッグを録音したスタジオで録音されたということになるんですね。その作者であるジェリーリーバとマイクストラのコンビなんですけれども、二人とも生まれたのは東海岸で、西海岸に引っ越してきたということですね。二人は50年に出会ったということです。リーバとストラはそのころからR&Bのアーティストに曲を提供してたということですね。そしてこのハウンドドッグがナンバーワンになって大ヒットしたので、さぞかし大金が入り込むだろうと期待して待っていたんだそうですが、一銭も入ってこなかったそうです。これは自分たちでレコード会社を作るしかないという風に考えて、スパークレコードを作ったんですね。
そこで宣伝担当にレスターシルLester Sill を引き入れたということでした。
3人で54年の3月から始めて、全22枚のシングルを発売しましたが、ヒット作が1枚もでませんでした。アーティストとしては地元に49年くらいから地元に活躍していたところのロビンズというグループがいて、それが中心のレーベルだったということです。ではリーバストラがロビンズに書いた最初の作品を聞いてみましょう。第9官房の反乱。
Riot in Cell Block #9/The Robins
第9監房の反乱で、これは当時実際に刑務所で起きた事件を題材にして作った曲だといわれてます。ちょっとこれもまた穏やかな題名で無いですけれども事件ものというジャンルだと考えればハートブレークホテルと共通するものがありますね。さて次の曲はエルビスがカバーして大ヒットした曲です。
Love Me/Willy & Ruth
ウィリーとルースという男女デュオでした。エルビスのバージョンとはずいぶん違ってましたね。さてこのレーベルでの主役は、先ほどの第9監房の反乱を歌ったロビンズでしたが、このスパークレコードの最後のシングル版となったのが、スモーキージョーズカフェ。
Smokey Joe’s Cafe / The Robins
結局スパークレコードは1年半くらいでたたんでしまったわけですけれども、ここにアトランティックのアーメットAhmet Ertegunの兄、ネスヒー・アーティガンNesuhi Ertegunという人が登場します。
このスモーキージョーズカフェを是非アトランティックから出したいということでリーバストラの下へやって来まして、彼らを専属でプロデューサーにならないかと、宣伝のレスターシルも一緒にどうだということで、この3人はほいほいと、アトランティックと契約したということになります。55年の秋、ロビンズのこのマスターが、アトランティックでできたばかりの子会社のアトコAtco Recordsというレーベルがあったんですが、そこから10枚目のシングルとして発売されました。
ちょうどこのころなんですね、パーカー大佐がエルビスを買わないかとアトランティックに話を持ちかけたのはちょうどこの頃でした。アーメットの兄のメスヒーアーティガンという人なんですけど、これはもともと西海岸に住んでいて、40年代にはジャズ専門のクレセントレコードCrescent Recordsというのを設立していたんですね。
ところが50年代にウエストコースとジャズが流行ってきたので、それを売り払ってレコード会社経営は止めていたわけです。そこで弟のアーメットからアトランティックのジャズやR&Bを担当してくれと頼まれて、クライドマクファクターが抜けたドリフターズですね、そのドリフターズのプロデュースをやっていました。
55年9月にネスフィーアーティガンがディーバストラにドリフターズ用の曲を書いてくれと頼んだんです。それがこの曲だったのです。
Ruby Baby / The Drifters
これはすぐにはリリースされなかったんですけども、アトランティックと契約する以前からネスフィーアーティガンは作家とプロデューサーとしての力量を評価していたとのことでした。ニューヨークのアトランティックと契約したロビンズはコースターズと改名されました。
これはメンバー問題などもあったんですけども、ウエストコーストから来た人たちという意味らしいですね。ですから本来ならウエストコースターズとなっていたらしいですけどね。東京でいうところの関西人てな感じですか。コースターズとしてのデビュー曲は56年3月に発売されました。ダウンインメキシコ。
Down In Mexico/The Coasters
リーバストラの異国趣味といいますかね、生身のものの描き方がうまいといいますかね、という感じがしますが、これは8位にランクされまして順調な滑り出しをしましたね、コースターズは。ダウンインメキシコが発売されたのと同時期にドリフターズのルービーベイビーも発売されたんですね。2曲同時にトップテンにランクされたんです。リーバストラとしてはスパークレーベルで全くヒットが無かったですから、かなりうれしかったと思いますね。なんという偶然か56年の5月といいますと、そのチャートの上にハートブレークホテルがいたんですね。
ですからリーバストラにとっては、この上にいたアンちゃんが3ヵ月後に、自分たちの昔の歌を大ヒットさせるとは、このころは夢にも思ってなかったわけです。コースターズは、この頃から大ヒットを連発しました。3月に発売された3枚目のシングルはR&Bチャートでしたが両面、ナンバーワンヒットとなりました。
Young Blood / The Coasters
若い女性をヤングブラッドとは、またなんとも、リーバも。このB面だったのもこの曲です。
Searchin’/ The Coasters
コースターズでサーチンでしたね。このノベルティータイプといいますかね。このストーリーテリングといいますか、お話が延々通津いていくという形式なんですけれども、日本でこのタイプを探しますと、「こりゃシャクだった」がこれですね。
あれがノベルティータイプで、ですから青島さんは日本のジェリーリーバだったというのは、青島、萩原哲晶は日本のリーバストラだったというのが私の解釈でございます。R&Bチャートでは両面ナンバーワンでしたけども、ポップではヤングブラッドが8位、サーチンが3位と大ヒット、大人気なんですね、コースターズというのは。ここまで聴いてきました、ダウンインメキシコ、ヤングブラッド、サーチン、音質がロビンズ時代とほとんど同じなんです。それもそのはずでスパークレーベル時代から使っていた、LAのマスターサウンドスタジオで録音しているんです。
使っているミュージシャンも以前と全く同じです。コースターズってのはアトランティックへ行ったので、ニューヨークで録音しものとばかり、僕も思ってたんですね、長い間。ところがここまでですね、これらもLAで録音されていたんです。
Love Me / Elvis Presley
なぜか。カギはやっぱりエルビスなんです。57年のエルビスは1年間ハリウッド暮らしだったと何度も申し上げておりますけれども、その1年間は2本の映画、3本目も決まっていて、そのサウンドトラックのレコーディングと間にオリジナルがチョコチョコとあって、その忙しさから言ったら56年の数倍だったと思うんですね。コースターズの先ほどのヤングブラッドとサーチンは57年の2月の録音なんですが、この時期にリーバスストラはエルビスに初めて書き下ろしをしてるんです。もちろんトム・パーカーは、リーバスストラがアトランティックと契約したことは知ってるわけです。
しかしなんとしても、リーバスストラをエルビスのスタッフに引き入れたかったんですね。そこでトムパーカーが一計を案じたんですが、エルビスの2本目、3本目、更には4本目、全部彼らが主題歌を書いてくれとリーバスストラに依頼したんです。さすがにこの取引を断る人はいないと思いますね。リーバストラがエルビス用に初めて書き下ろした楽曲のタイトルはなんとホットドッグでした。
Hot Dog / Elvis Presley
ハウンドドッグからホットドッグですから、あり変わらずジェリーリーバの皮肉が利いてますけどね。これはエルビス2本目の映画、さまよう青春の挿入歌でした。テーマソングとなったバラードのラビンユーは、この後に録音されています。
とにかく、この57年の1年間は、パーカー大佐はリーバストラに、仕事を与え続けたんですね。休む暇なく与え続けたんです。ですからリーバストラは忙しくて、コースターズに関わる余裕も無かったんです。ましてやニューヨークに行くなんてことは全くできなかったんです。そこでコースターズのすべての録音もLAで行われていたということ。原因はすべてエルビスにありました.。続く3本目の映画は監獄ロック。もちろん主題歌は彼らの担当なんですけども、この映画にはなんとあのマイクストラがピアノを弾いているシーンが何度か出てきます。
Jailhouse Rock / Elvis Presley
エルビスの監獄ロックでしたが、ロビンスの第9監房の反乱の内容がここで活かされたわけですね。次の4本目の映画は闇に響く声、キングクレオール。
この中にも、今度は内容ではなくて、第9監房の反乱のサウンドパターンを使いました。
Trouble / Elvis Presley
トラブルでした。またまた第9監房の反乱を使いましたね。キーも同じなんですね、これ。さて57年暮れになって、ようやく、パーカー大佐から解放されたリーバストラは、待ちに待っていたアーメットアーティガンのところへ行きます。翌58年3月、やっとコースターズのニューヨーク録音が始まります。最初のナンバーワンヒットとなったのはヤックティーヤックですけれども、これはR&Bでは1位でしたが、ポップチャートでも1位になったんです。本当にコースターズというのは、大人気だったんです。もうエルビスの仕事がなくなりましたからね。リーバストラとしては、ここでコースターズに集中して作曲活動ができたということだと思います。サックスはキングカーティス、こっからニューヨークのコースターズサウンドが始まりました。
Yakety Yak / The Coasters
Charly Brown /The Coasters
Along Came Jones /The Coasters
Poison Ivy /The Coasters
ヤックティーヤック、チャーリーブラウン、アロンケムジョンズ、ポイズンアイビーとニューヨークのトムドアウトの音というのは、やっぱりクリアーなんですね。このころは8チャンネルレコーダーを使っていたということです。リーバスストラはようやく本業に戻ったというわけです。リーバスストラもニューヨークに行きましたので、われわれもここでニューヨークに行こうと思います。ニューヨーク。1952年にニューよくでできましたケーデンスレコードCadence Recordsというこのケーデンスレコードの話に移りたいと思います。このレーベルからのヒットにはこういうのがありました。
Mr Sandman / The Chodettes
テレビのタレントスカウトショーの、そこでバンドリーダーだった人が作った会社だったんですね、このケーデンスレコードというのは。
アンディーウイリアムスの最初のヒットも、このケーデンスレーベルから出ました。
Butterfly / Andy Williams
アンディーウイリアムスのバタフライで、57年春のヒットで、これはカバーなんですけれども、オリジナルとカバーが両方とも1位になったという珍しいパターンでしたね。ケーデンスレコードがカントリー部門にも力を入れるということになって、2年間沈黙していたエバリーブラザースが登場すると。
エバリーはこのケーデンスレコードと契約したんですね。再起をかけた曲は、フェリスとブードローのブライアント夫妻が作った曲だったんです。さてその曲はバイバイラブという曲です。エバリーは再起をかけてこの曲に賭けていたわけですね。ところがですね、カントリー業界の第1人者、ウエブピアス、また出てきました。ウエブピアスは、この話を聞きつけて自分で先に録音しちゃったんですよ。バイバイラブを。しかもエバリーよりも先にリリースしたんですね。で、ヒットさせてしまったんです。
Bye Bye Love / Webb Pierce
まさか第1人者が邪魔に入るとは思ってもいなかったと思いますけどね、これがトップテン入りしてヒットしてしまったんですね。ですからエバリーは、デビュー曲はずいぶん不安な状態で、このデビューを迎えたわけです。
Bye Bye Love/The Everly Brothers
これの心配は完全な杞憂に終わったんですね。57年の5月の20日にチャートしてから、ポップで2位、カントリーで1位、R&Bでも5位と、これもまた3部門制覇のメガヒットとなったわけです。これでエバリーもようやくスターの仲間入りを果たしたということになりました。これは、ケーデンスというレコード会社がカントリー専門というのではなくてポップのフィールドのレコード会社だったということも非常に大きかったのかも知れない、ね。バイバイラブのイントロの生ギターなんですけれども、このイントロの音にはしかけがあるんですね。二人がノーマルチューニングなんですけども、一人がオープンチューニングなんです。そのオープンチューニングは、ボディドリーのオープンチューニングを参考にしたという、ですから、あの音はなかなか完璧に再現されないというのはそういう秘密が隠されてあったということです。続いて57年9月に2枚目のシングルをリリースします。
ウェイクアップリトルスージー。
Wake Up Little Susie/The Everly Brothels
これはバイバイラブ以上の大ヒットだったんですね。ポップ、カントリー、R&Bすべてに第1位だったんです。この記録はエルビス以外は誰も作っていなかったんですね。ですから、このエバリーがその二人目となったわけです。内容がコミカルで当時の若者なら1度や2度はそういう経験があったんじゃないかというようなことを歌っていたので、ビッグヒットになったのかもしれないすけれどもね。ここでブライアント夫妻とエバリーとの強力なコンビができあがって、名曲が次々に誕生するという風になったわけです。3枚目のシングル盤は、ここでカバーに挑戦です。しかもR&Bに挑戦しました。選ばれた曲のオリジナルはリトルリチャード。
Keep A Knockin’/ Little Richard
この迫力あるR&B、リトルリチャードのR&Bをエバリーは、独特の調理法でカバーをいたしました。
Keep A Knockin’ /The Everly Brothers
このような第3の道があるというのは、誰も気付いてなかったんですね。例えばR&Bはシャウトする歌だったらシャウトするとか、あるいは気の抜けた白人的なカバーとか、その二つしかなかったんですけれども、エバリーはそのニュアンスを保ちながらR&Bの雰囲気を出して、コーラス、ハーモニーでR&Bをカバーするという、この第3の道を提示したという、これが大きかったんですよ。後にビートルズは、このハーモニーでシャウトするという、そういう新味だった。その原点はエバリーにあったということです。さて58年4月エバリーは、第4弾です。これはロック史だけでなく、アメリカンポップスの永遠の名曲となりました。イントロのギターはチェットアトキンス。
All I Have To Dream /The Everly Brothers
これも3部門第1位です。3部門制覇はエバリーは2曲目ですけれども、3部門制覇というのは、エルビス以来日常茶飯事ではありましたが、いずれも1位というのはめったにありません。エルビスが56年に2、57年に3、5曲もあるというのはすごいことなんですけれども、エバリーもこの2曲ということで、アメリカンポップ史上におきましてこの偉業を成し遂げたのは、この7曲しかないんですね。他には無いんです。おそらくこのようなことは将来的には起きないことだという風に思います。まさに56年、57年、58年、この時代がロックンロールの時代だったという風にいえると思います。エバリーブラザースはナッシュビルのロックンロールを、孤軍奮闘、守り続けたのでありました。それではまた明晩。