大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート2 第3夜
2012年8月29日放送
(放送内容)
大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート2
本日はその第3夜で、パート1の舞台はテネシー州メンフィス、パート2の第1夜は同じくテネシー州のナッシュビル、そして昨晩は西へ行きまして、ニュー・メキシコ州のクロービス、で、本日の舞台はぐっと南へ下りまして、ルイジアナ州はシュリーブ・ポート。54年10月にエルビスがデビューを飾ったルイジアナ・ヘイ・ライド、いよいよ1956年の12月16日がエルビス最後のステージとなりました。まずは、その模様から。
Heartbreak Hotel(live) /Elvis Presley
えー、すごいですねえ。もう最後ということは、観客も分かっていたんでしょうね。もう完成ではなく、もう悲鳴になってますよね。この日はラストデーということで、ラブ・ミー・テンダーや冷たくしないで、そして最後はハウンド・ドッグで10曲も歌うというサービスぶりだったわけですけれども、まあ、こうやってエルビスは、ルイジアナ・ヘイ・ライドを巣立っていったわけですね。ルイジアナ・ヘイ・ライドが行われていた、このシュリーブ・ポートという町には、いくつかラジオ局があったんですね。で、一番有名なのは、このヘイ・ライドを称していたKWKHです。
このラジオ局では、深夜の低料金で若者にスタジオを開放していたんですね。そこへ昼間はレコード店の店員、で、夜にバンドをやりながらデモを作るということをしていた若者がおりました。で、そのデモをレコード店の店主が聞いたんです。で、これは良いということで、シカゴのチェス・レコードに送りました。
とんとん拍子に話が進んで56年6月にそのレコードが発売されるということになりました。青年の名はデール・ホーキング、最初のシングルはシー・ユー・スーン・バブーン。
(説明はチェスだが、レコードはチェッカー)
See You Soon Baboon/Dale Hawkins
ええええー、何やらターザン風の声が入っていましたけれども、これ、既に、シー・ユー・レイター・アリゲーターSee You Later, Alligatorっていうヒット曲があったんですね。
その曲の作者であるところのボビー・チャールズBobby Charlesとデル・ホーキンズDale Hawkinsは知り合いだったんですね。
友達が大ヒットを出したので、第2弾にシー・ユー・スーン・バブーンを作ったんだそうです。まあ、これは残念ながらヒットはしなかったんです。ではその元歌と言いますかね、シー・ユー・レイター・アリゲーター、これはビル・ヘイリーで大ヒットしましたね。56年にR&B2位、ポップ・チャート6位という大ヒットでした。では作者本人のボビー・チャールズ版を聞いてみましょう。これはR&Bチャートでは14位を記録しました。
See You Later Alligator /Bobby Charles
ボビー・チャールズでシー・ユー・レイター・アリゲーターでした。これはもう流行語になったみたいですね。別れる時に、シー・ユー・レイター・アリゲーターって言うんですよね。もともとはファッツ・ドミノに書いた曲なんです。で、ボビー・チャールズはその後にたくさんのヒット曲を作ることになるんですけども、えー、ちょっと、このボビー・チャールズにも触れておきましょう。ボビー・チャールズをチェスの社長に紹介したのも、ロサンジェルスのレコード店の店主だったんですね。まあ、このロックンロール時代というのは、ラジオ局のDJ、そしてレコードショップのオーナー、こういう人たちが大活躍した時代でもありました。で、ボビー・チャールズは電話でですね、社長のドナルド・チェスにこれを歌って聞かせたんだそうですね。それでチェスが気にいったんで、録音の費用を出してくれたんでそうです。で、この人のヘア・スタイルはビル・ヘイリーとおんなじなんですね。えー、ナポレオンのマネをしたのか、あるいはビル・ヘイリーが自分の曲を大ヒットさせてくれたので、感謝の意味を込めて同じヘア・スタイルにしていたのかも知れないんですけれども、どうも、あのヘア・スタイルは当時、大流行したみたいなんですね。
まあ、格好良さの概念手いうのも時代によって変化していくといことではないでしょうか。で、デル・ホーキンスは、さっきの、シー・ユー・スーン・バブーンが不発だったので、以前に作っていた曲を第2弾として売り込もうということで、そう考えたわけです。では、その、以前に作っていたデモ・テープというのを聞いてみましょう。
Susie-Q(demo) /Dale Hawkins
えー、デモには管楽器も入っていたんですね。この曲を今度はKWKHのスタジオで再びレコーディングしたのが、こちらのバージョンでした。
Susie-Q/Dale Hawkins
えー現在では、ロックンロール・クラシック となりました、スージーQ。印象的なリード・ギターのフレーズを考えて弾いていたのはジェームス・バートンだったんですね。
で、これが57年の5月に登場しまして、ポップでは27位どまりでしたが、R&Bでは7位までランクされまして、一躍ホーキンスはR&B界の人気者という風になったわけですね。で、デル・ホーキンスの活動は、ここから始まったんですけれども、ロック史としては、彼よりも、ギターを弾いていたジェームズ・バートンの存在が、より大きくなっていくわけでございます。で、バートンの従妹で、マイロン・ハンフリーズという人がいました。で、このスージーQでも、ハンド・クラップで参加していたということですが、この人のバックでも、ジェームス・バートンのギターがさく裂しております。
Worried About Blues / Myron Humphreys
ひょっとすると、DCファイブのシンキンノビュー・ベイビーThinking Of You Babyはこれですかね。
今、ふっと思い出しましたけど、この曲のオリジナルは、アーサー・クルーダップArthur “Big Boy” Crudupだそうです。
確かにこれ、マイ・ベイビー・レフト・ミーですよね。
で、マイロン・ハンフリーズは何度もこの曲をレコーディングしてますが、ジェームズ・バートンはその度に、違うフレーズを弾いています。さて冒頭でもお話ししたルイジアナ・ヘイ・ライドなんですが、56年の春ごろには、もうエルビスは出ないだろうという風に分かっていたんだそうですね。そこで、ヘイ・ライドの動員をキープするために、主催者側は何とか第二のエルビスを探さなければいけないと、そういうことになって、そこで白羽の矢が立ったのが、ボブ・ルーマンという人です。
この人もヘイ・ライドに出ていて、人気はあったようなんですけど、第2のエルビスに仕立て上げようと、主催者側は彼にバック・バンドを用意したんです。そのバック・バンドの中にジェームス・バートンがおりました。
All Night Long /Bob Luman
オール・ナイト・ロング、ボブ・ルーマンでした。ルイジアナ・ヘイ・ライドで、彼のステージを見て契約を申し込んできたのは、ロサンゼルスの会社のインペリアル・レコードの社長ルー・チャッドでした。
で、彼は新人を探しに、よくこのヘイ・ライドを見に来てたわけですね。そこでボブ・ルーマンのステージを見てインペリアル・レコードとの契約ということになったわけです。そこで、早速彼に映画出演の話を持ち掛けるんです。映画はカーニバル・ロックCarnival Rockというタイトルの映画で、実は低予算のB級映画だったんです。
ですから無名の歌手が出ても、全く問題ないということだったんですね。で、西海岸のB級映画と言いますとですね、泣く子も黙るロジャー・コーマンRoger Cormanです。
コッポラFrancis Ford CoppolaやスコセッシMartin Charles Scorseseやジャック・ニコルソンJack Nicholsonや、彼の工房からスタートして、後に有名になったという人はたくさんいるんですけどね。
で、そのロジャー・コーマンがプロデュースしたところの映画がカーニバル・ロックでした。で、ここでボブ・ルーマンは3曲ばかり歌ってるんです。で、もちろん、ジェームス・バートンは背後に控えて、間奏になると前に出てきて弾いています。
This ls The Night/ Bob Luman
ディス・イズ・ザ・ナイト、ボブ・ルーマンでした。弾いてましたねえ、ジェームス・バートン。映画では、ボブ・ルーマンと彼のシャドウズというグループ名を付けられていたんです。ジェームス・バートンは、シャドウズのメンバーだったんですね。もちろん・この時点ではイギリスにシャドウズというグループは無いんですけどもね。他にはプラターズも出演している映画でしたが、せっかく映画で歌ったこの歌は、シングル・カットされなかったんですね。でー、別の曲をリリースしたんですが、まったくヒットしませんでした。しかし、ルイジアナのシュリーブポートからあこがれのハリウッド暮らしとなったわけですから、もうボブ・ルーマンたちは帰るわけにはいかないんですね。で、エルビスが1年間滞在した57年のロサンゼルスには、ジャンジャン、どしどし、ロックンロールのミュージシャンが集まりだしてきました。
さて、話は変わりまして、57年の4月、テレビのホームドラマで人気のあった、16歳の青年がレコード・デビューを果たしました。彼は12歳からテレビで、出ていまして、全米中が彼の成長過程を知っているという人気者だったんですね。で、お父さんはオジー・ネルソンOzzie Nelson、元バンド・リーダーで、戦前にはナンバー・ワン・ヒットもありました。
で、お母さんはバンドの歌手だったわけです。ですから全米中の視聴者は、この子もそのうち歌手になるんだろうなって、みんなは思っていたと思うんですね。で、このテレビドラマは1960年から3年間、NHKテレビで放送されていました、ですから、日本でも見ていた人、かなりの数いると思います。で、日本題は「陽気なネルソン」というタイトルで、青年の名はリッキー・ネルソン。
I’m Walkin’/ Ricky Nelson
ギターはウェスト・コースト・ジャズで有名なバーニー・ケッセルBarney Kesselが弾いておりました。
おそらく、お父さんの関係で起用されたんじゃないかと思うんですけども。ファッツ・ドミノのカバーでしたが、57年の5月に登場して、ポップ4位、R&Bでも10位になるという、ヒットですね。最初のシングルから両面ヒットでした。特にポップチャートではB面のティーネージャーズ・ローマンスっていう歌があるんですが、こちらの方が2位になりました。リッキー・ネルソンは、テレビの知名度も有りまして、最初から人気が爆発したんですね。で、彼はまだ高校生だったんですが、ここから、本格的なティーネイジャー・アリドルの時代が始まったと言って良いでしょうね。で、この頃からメディアの主役がラジオからテレビに映っていました。56年の、例の、エルビスのテレビ出演もありましたけれども、音楽がテレビを有効に活用しだしたのは大体この57年ですね。ディック・クラークのアメリカン・バンドスタンドが始まったのも、この57年でした。
さて、リッキー・ネルソンの第3弾シングルは、ビーバップ・ベイビー。
Bee-Bop Baby / Ricky Nelson
これもポップ3位、R&B5位で、B面もヒットで、ネルソンの初期のレコードは、ほとんどが両面ヒットしています。これら2曲のシングル盤は、LAのマスター・サウンドというスタジオで行われたんですね。
この前に、ボブ・ルーマンが出てきましたけれども、彼もロサンゼルスに来てからは、マスター・サウンドのスタジオを使っていたんです。ですから、同じスタジオだったんですね。で、そこに居合わせたリッキーはですね、ボブ・ルーマンのスタジオを見たわけですね。で、「パパ―、あのギターとベース、僕のバンドに欲しいんだよ。」という風に言ったかどうか知りませんよ。見てたわけじゃありませんから。でも、おそらく、そんなことだったと思いますね。で、パパは音楽業界の大物ですからね、オジー・ネルソン、「そうかい、そうかい、坊やがそう言うなら、採ってきてやろう」と、これも見ていたわけでは有りませんが、大体そんなことだったろうと思います。で、次の第4弾シングルには、ボブ・ルーマンのバンド・メンバーであったところの、ジェームス・バートンと、ジェームス・カークランドが参加していたのでした。
Stood Up / Ricky Nelson
ストゥードゥ・アップ、リッキー・ネルソンでした。えー、弾いてましたねー、ジェームス・バートン。えー、でですねえ、コーラスが入っていたと思います。で、コーラスはジョーダネアーズThe Jordanairesなんですね。
ですから、これも、「パパ―、僕、ジョーダネアーズのコーラスが欲しい」って言ったんじゃないかと思うんですね。というのも何度か申し上げましたが、エルビスは57年ていうのは、1年間ハリウッドにいたわけです。で、、ラジオ・レコーダーズっていうスタジオで、ずっとセッションをやっていましたから、ジョーダネアーズは、何度もこのLAに来ていたわけですね。ですから、リッキー・ネルソンも簡単に使えたということだったんです。で、この4枚目のシングルも2位と大ヒットしました。そして、こっから、バンドのメンバーは、ジェームス・バートン、ジェームス・カークランド、そしてドラムのリッチー・フロストと固定化しました。で、ネルソンはデビューした時は、バーブVerve・レコードだったんですが、もうすでにインペリアルに移籍していたんです。つまりに、ボブ・ルーマンの会社にもう来ていたんですね。で、悲しいことに、ボブ・ルーマンはですね、バンドのメンバーは持ってかれるわ、会社のプライオリティーもリッキー・ネルソンに持っていかれてしまったということで、恐るべしパパの威力ということじゃないかと思います。さて、シュリーブ・ポートで、デール・ホーキンス、ジェームス・バートンがいなくなった後、どうしたかといいますと、以前から知り合いだった、ギタリストのジョー・オズボーンJoe Osbornに声をかけます。
で、スージーQと同じラジオ局のKWKHで録音された、ラ・ドゥ・ダという曲です。で、ドラムはこれまた昔の仲間で、エルビス・バンドのDJフォンタナD.J.Fontanaがたたいています。
La-Do-Dada/Dale Hawkins
えー、アニマルズのアイム・クライングはこれですかね。
さて、続いて、デル・ホーキンスのセッションには、ギタリストとしてロイ・ブキャナンRoy Buchananが登場します。
スタジオはラジオ局ではなくて、シカゴのチェス・スタジオの録音でした。マイ・ベイブ。
My Babe/Dale Hawkins
えー、デイル・ホーキンスで、マイ・ベイブでした。さて、せっかくロサンゼルスに来たのに、リッキー・ネルソンにギターとベースを持ってかれたボブ・ルーマンはその後どうなったでしょうか。で、彼は地元のシュリーブポートからメンバーを物色するんですね。で、候補になったのが、このロイ・ブキャナンとベースのジョー・オズボーンでした。で、ジョー・オズボーンはギターだったんですが、ロイ・ブキャナンが登場したことによって、ベースに転向したんですね。で、ギターの名手、ロイ・ブキャナンがベースの名手ジョー・オズボーンを誕生させたという風にも言えますね。さて、リッキー・ネルソンに負けてはいられないボブ・ルーマンはですね、この二人をリクルートいたしまして、LAに呼んでセッションを行いました。ブーン・ブーン・ブーン・イッピ・アイ・エー。
Boon Boon Boon Yippy Yi Ya / Bob Luman
ボブ・ルーマンで、ブーン・ブーン・ブーン・イッピ・アイ・エーでした。ジョー・オズボーンのベースなのか、ギターなのか、良く分からないという特徴がよく出ていたと思います。これは59年の6月の録音でしたが、結局、ボブ・ルーマンはインペリアルでヒットが出なくて、この後、ワーナー・ブラザース・レコードに移りまして、60年にようやく初ヒットが出ました。で、このボブ・ルーマンの功績は、ジェームス・バートンとジョー・オズボーンをLAに移動させたということですね。申し訳ない言い方では有りますが、結果的にはそうなりました。さて、ここで、またまたリッキー坊やが登場しました。「パパ―」、また、これなんですけど、「今度は、あのベースが欲しい」となったわけですね。そこで、せっかく取ってきたジェームス・カークランドをクビにしまして、ここで、バートンとオズボーンというコンビが完成したのでした。
Milk Cow Blues/ Ricky Nelson
ミルク・カウ・ブルース、リッキー・ネルソンでした。リッキー・ネルソンについては、いずれ語ることになると思いますので、本日はこの辺までといたします。で、ネルソンが所属していましたインペリアル・レコードは、ルイ・チャッドという社長で自らが制作する、カントリーとロックンロール部門がありましたが、制作を外部で行ってるR&B部門というのがありました。で、これの制作工房はニュー・オーリンズにありまして、その中で最大のヒットメーカーは、ファッツ・ドミノだったんです。で、彼のデビューは1950年。
The Fat Man /Fats Domino
自分のテーマ・ソングみたいな、ファット・マンという曲だったんですけど、R&Bチャートでは2位にランクされました。で、この後もジャンジャンヒットを出していたんですね。で、55年のエインザッタ・シェイム、R&Bでは1位になりましたが、パット・ブーンがポップ・チャートで1位にしまして、そこで初めてファッツもポップ・チャートの登場して10位にまで上がりました。
で、ここからファッツはポップ・チャートの常連にもなったわけです。これらはすべてロサンジェルスのレコード会社インペリアルから出ていたんですね。で、ロサンゼルスには、他にもR&B専門のレーベルがたくさんあったんですね。えー、で、スペシャルティ・レコードSpecialty Recordsというのもその一つです。
これも同じく制作工房はファッツと同じニュー・オーリーンズで、スタジオも同じ、コズィモ・スタジオと言いましてですね、J&Mスタジオとも言いましたが、経営者はエンジニアも兼ねていた、コズィモ・マタッサCosimo Matassaという人です。
で、ニュー・オーリンズ・サウンドのすべてはこのスタジオで作られておりました。さて、ニュー・オーリンズ・サウンドの特徴は、サックスのアンサンブルもそうですけども、ロックンロール史上注目すべきはドラム・サウンドなんです。で、ファッツ・ドミノのファット・マンとかローディー・ミス・クローディー、どれもドラマーはアール・パーマーという人です。で、パーマーはニュー・オーリーンズ系のアーチストのほとんどをたたいていますけども、特に強力なコンビだったのが、リトル・リチャードとのコンビです。で、インペリアルの一番の売れっ子がファッツ・ドミノでしたが、スペシャルティのナンバー・ワンはリトル・リチャードでした。
Long Tall Sally /Little Richard
ロックンロールと映画と言いますと、55年の暴力教室でビル・ヘイリーのロック・アラウンド・ザ・クロックが大ヒットしまして、でも、これにはビル・ヘイリーは出ていなかったんですね、音楽だけで。
翌56年にビル・ヘイリー主演と言いますかね、中心となって、ロック・アラウンド・ザ・クロックという映画が作られました。で、そこからジャンジャン、ロックンロール映画が作られていくようになったわけです。で、56年暮れ、エルビスがラブ・ミー・テンダーで、初出演したわけですけれども、それに続いて公開された映画に、ザ・ガール・キャント・ヘルプ・イット、日本の題名は、女はそれを我慢できない、という、そういう映画がありました。
主題歌はこのリトル・リチャードが歌っておりまして、もちろん本人の演奏シーンもありました。
Girl Can Help It/ Little Richard
監督はフランク・タシュリンですので、コメディーなんですけど音楽シーンがふんだんに盛り込まれた映画となっております。
で、ファッツ・ドミノがブルー・マンデーを歌っていますし、プラターズは、ユー・ネバー・ノウを歌ってますし、ジーン・ビンセントはビー・バッパ・ルーラを歌うシーンが入っております。
ほとんどがヒットを持っている人たちばかりだったんですけど、その中に、当時は全くの無名の若者がテレビで歌ってるというシーンで登場してきました。その若者の名はエディ・コクラン。
Twenty Flight Rock / Eddie Cochran
エディ・コクランのトゥエンティ・フライト・ロックでした。で、エルビスはですねえ、56年の4月と言いますから、まだ、ハート・ブレイク・ホテルが1位になっていない頃ですね。上がっている頃ですけども、ハリウッドで、カメラテストを受けてたんですね。それを見たんですけど、カラーでした。で、ブルー・スエード・シューズの当て振りをしてるんですけど、これが、すっごくうまいんですよ。
マイム能力って言うんですかね。で、これ、ハル・ウォリスHal B. Wallisが作っていたわけですから、フランク・タシュリンFrank Tashlinも見ていたと思うんですね。
おそらく、「女はそれを我慢できない」にエルビスを使いたかったんじゃないかと思うんです。これは想像なんですけど。でー、これも想像ですが、パーカー大佐は、たぶん映画の全体の製作費の3倍くらいは吹っ掛けたと思うんですね。そこで、エルビスは出てこなかったんです、誰かエルビスの代わりになるようなやつはいないか、ということで探したところ、このエディ・コクランが見つかったという話だったんじゃないかと思うんです。ていうのもエルビスのカメラテストの映像と、背景、カラー、照明、ものすごく、このエディ・コクランのシーンに似てるんですよ。本当に驚くくらいによく似てるんです。恐らくそうなんじゃないかなと思いました。ロックンロール時代になって、アメリカの人がテレビやコンサートで本人が見られるわけですけれども、外国の人はレコードを聞いて雑誌で見るくらいしか情報は入ってこないわけで、ですからエルビスの一作目の「ラブ・ミー・テンダー」はものすごく、皆さん期待したと思うんですよ。ところが「ハウンド・ドッグ」も「冷たくしないで」も「ハートブレーク・ホテル」も、何にも歌わないし、最後は死んじゃうし、というわけでロックファンは結構がっかりしたんじゃないかという風に思うんですけどね。で、その直後だったんです、この「女はそれを我慢できない」が出てきたのはね。で、「ラブ・ミー・テンダー」と違ってカラーだったんですね。で、この映画の「ビー・バッパ・ルーラ」を歌ったジーン・ビンセント、これを見た世界中の若者は、「そうか、ロックンローラーっていうのは、ああいう格好で、ああいう服装で、ああいう風なアクションで、歌うのがロックンローラーなんだ、という風に思ったと思うんですよ。さらに、「あの、途中に出てきた無名の若者はいったい誰だ。カッコいいじゃないか。」という風になったと思うんですよ。で、イギリスの16歳の少年、ジョン・レノンもやはりジーン・ビンセントにショックを受けて、あの真似をしたということですね。で、その後に15歳の少年、ポール・マッカートニーと出会った時に、ポールは、エディ・コクランの、あのトゥエンティ・フライト・ロックを歌ったんだそうです。
で、ジョンは良いセンスしてるじゃないか、ということで一緒にやろうと決めた、という風には、ものの本には書いてあるんですけどね。で、イギリスでジーン・ビンセントとエディ・コクランの人気が異常に高いのを、僕はね、今まで不思議に思っていたんですけどね。
まあ、確かにロックンローラーとしては、スーパー・スターですから分かるんですが、そのイギリスのもてはやされ方がちょっと異常だなと思ったんですけど、実は原因はこれだったんですね。この「女はそれを我慢できない」は、ビートルズを作ったと、ジョンとポールのコンビを生んだという風に、まあ、結果的に言えるんじゃないでしょうかね。ま、映画の部分を割愛したのに、こんなに長くなってしまいましたけどね。エディ・コクランはせっかく映画で歌った、トゥエンティ・フライト・ロックはシングル・カットされなかったんです。というのは次のシングル曲の評判がものすごく良かったんですね。えー、で、そちらの方に力を入れることになりました。それが、エディ・コクランの最初のヒット曲になりました。映画公開から約3か月後に出ました。シッティニン・ザ・バルコニー。
Sittin’ In The Balcony /Eddie Cochran
出ましたねえ。フィード・バック・エコー。ポップでは57年3月初登場、18位、R&Bでは7位まで上がりました。かなりのヒットだったと言って良いでしょうね。ジーン・ビンセントといい、エディ・コクランといい、どちらもフィードバック・エコーの使い方がうまいですよね。パート・ワンでエルビスのブルー・ムーノブ・ケンタッキーをかけましたが、ここからロックンロールは生まれたという風に言いましたが、あれから始まったフィード・バック・エコーでしたが、これが決定打でしたね。
で、エディ・コクランといいますとこの曲というヒット曲が生まれました。
Summertime Blues / Eddie Cochran
58年の7月に発売されまして最高位8位、R&Bで11位でしたが、彼の代表曲となりました。で、このサマー・タイム・ブルースのもう一つの注目点はね、ドラムなんです。先ほど、ニュー・オーリンズ・サウンドの時にアール・パーマーEarl Palmerを紹介しましたが、アール・パーマーがこのサマー・タイム・ブルースのドラムをたたいています。
アール・パーマーもサム・クックSam Cookeと同じ57年にLAに移って来てました。実は、ボブ・ルーマンでも何曲かたたいています。リトル・リチャードが大好きだったエディ・コクランですから、アール・パーマーのドラムで本当に良かったと思っていたんじゃないでしょうか。続いてのヒット曲も、ドラムはアール・パーマーです。
C’mon Everybody/Eddie Cochran
57年10月に登場しましたこの曲、チャートは35位と振るわなかったんですけど、サマー・タイム・ブルースみたいに、ブンブブンという風に低音源を響かせるこのサウンドは、新しいロックンロールサウンドという風になりましたよね。で、徐々にこれがウエスト・コースト・サウンドという風に広がって行ったわけです。このエコーなんですけど、これね、ゴールド・スター・スタジオのエコーなんです。後に、フィル・スペクターがスペクター・サウンドとして後に有名にしました、あのエコーですね。これは、エディ・コクランが先に使っておりました。同じく、LA出身のリッチー・バレンスの登場ですが、彼は58年に登場しました。これも、ドラムは、アール・パーマーでした。
La Bamba/Ritchie Valens
リッチー・バレンスのラ・バンバでした。イントロの、この6弦ベースがねえ、非常に印象的だったんですけど、弾いていたのは、ルネ・ホールというギタリストです。で、ギターはチャック・ケイも参加してるとのことですけどもね。もともとLAはスペイン領でしたから、南アメリカの文化が色濃いところですからね。メキシコとか、そういうところのこよのロック・アレンジが登場するのは、スタジオは十分にあったと思います。このラ・バンバと全く同じミュージシャンで作られたのが、チャン・ロメロのこの曲でした。
Hippy Hippy Shake /Chan Romero
チャン・ロメロで、ヒッピ・ヒッピ・シェイクでございました。この時にギターを担当していたチャック・ケイは、次に6弦ベースの担当となりまして、このイントロを引いたのでありました。
Dance Dance Dance/ The Beach Boys
このようにして、徐々にウエスト・コースト・サウンドが出来上がっていたというわけです。以前RCAでカントリーを歌っていた、トミー・サンズという歌手がいますけども、彼がキャピトルに移籍してきまして、ロックンロール路線に転向しました。
Worryin’ Kind /Tommy Sands
んー、どう聞いても、サマー・タイム・ブルースですけどね。トミー・サンズ、この人のバック・バンドのドラムは、ハル・ブレインHal Blaineでした。
アメリカンポップス・パート2、その第3夜は、ルイジアナ州はシュリーブポート、そして、ミュージシャンのロサンゼルスへの集中移動、えー、更には、ニュー・オーリンズとウエスト・コースの関係などをお話いたしました。それでは、また、明晩。