大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート2 第1夜
2012年8月27日放送
(放送内容)
大瀧詠一です。
この3月に放送しましたアメリカン・ポップス伝 パート1に続きまして、今回は、そのパート2です。で、前回はエルビスが登場したサン・レコード時代から、そして、一気にスーパー・スターの座に駆け上がって行った1956年までを、5回に分けてお話いたしました。今回はその続きで、まずはハートブレーク・ホテルが登場した1956年という、その年にスポットを当てまして、この1年間のエルビス登場の影響と、その波及について、検証してみたいという風に考えております。
That’s All Right (live) / Elvis Presley
これは1954年10月6日、ルイジアナ州はシュリーブポートで行われたルイジアナ・ヘイ・ライドに初出演の時のエルビスの録音ですね。これを見て、観客は熱狂していますけれども、何と言っても注目したのはアーティスト、一緒に出ていたアーティストやレコード会社のプロデューサーだったわけですね。
That’s All Right / Marty Robbins
それで、マーティー・ロビンスがこれをカバーして、エルビスはチャートに上がらなかったんですが、マーティー・ロビンス版は、上がったという、この話は致しました。そこで、マーティー・ロビンスは気をよくしてというか、リズムアンドブルース,R&Bをカバーしたんです。
Maybellene / Chuck Berry
このチャック・ベリーのメイベリーンをカバーしたんですね。で、まだ出て間もないころだったんですけども、ものすごい、素早いカバーでした。
Maybelline / Marty Robbins
えー、それにしてもR&Bチャートに登場したのは8月の6日なんですね。で、マーティー・ロビンスがこの曲を録音したのは、8月の9日。えー、三日後に録音したということなんです。で、この55年の夏というのは、パット・ブーンがエイン・ザッタ・シェイムをポップ・チャートで1位にしてるんですね。
で、その直後に、ビル・ヘイリーのロック・アラウンド・ザ・クロックが出てきたということで、まあ、業界全体はR&Bをカバーしようという風潮になっていたわけです。ただ、この曲はエルビスもライブで演奏してるんですね。ですから、ひょっとするとマーティー・ロビンスは、エルビスがやっているのを見たのがヒントになったのかも知れないですね。
Maybelline(live) /Elvis Presley
えー、エルビスはチャック・ベリーも大好きでね、メンフィスもカバーしてますし、後に、トゥー・マッチ・モンキー・ビジネスも歌っておりました。
さて、マーティーよりも先輩格に、ジョニー・ホートンというシンガーがいます。彼もルイジアナ・ヘイ・ライドに出ていて、エルビスのスタイルを見て、僕もロックンロールをやりたいという風に思った人ですね。まず、ジョニー・ホートンのデビュー曲を聞いてみましょう。
First Train Headin’ South/Johnny Horton
えー、デビューは52年なんですね。結構年齢が言ってからのデビューだったんですけれども、んー、で、ホートンがデビューした52年の翌年、53年の元旦にハンク・ウイリアムスが亡くなっているわけですね。
で、ハンク・ウイリアムスの未亡人はですね、えー、その年の秋に、このジョニー・ホートンと結婚したんですね。ま、そういうようなことがありました。で、どちらにしてもホートンはロックンロールをやりたいといことで、レコード会社を替わって、先ほどのマーティー・ロビンスのプロデューサー、ドン・ローのもとへ行って、ロックンロールをやろうという風になりました。それがこの曲でした。
Honky Tonk Man / Johnny Horton
ジョニー・ホートンでホンキー・トンク・マンでした。で、ジョニー・ホートンはエルビスの音が欲しいということで、エルビスの家に直接行きましてですね、ベースのビル・ブラックを借りたんです。そこのベースは、ビル・ブラックが弾いています。で、まあ、ああいうようなスラット・ベースですね、あのベースの音が欲しかったんじゃないかと思うんですけれども、で、これがナッシュビルのブラッドリー・スタジオというところで録音されました。
で、ギターを弾いていたのは、グラッディー・マーチンという人です。で、これ以降、ロックンロールはギターサウンドが中心に、まあ、以前からエルビスが出て来た時からギターサウンドが中心だったわけですけれども、更にその重要性が増していくということになるわけですね。で、この録音は1月の11日です、56年の。で、1月の10日というと、ハートブレーク・ホテルが録音された日なんですね。で、この日も、翌日の11日も、アイ・ワズ・ザ・ワンを、B面をとっていたんです。
ですから、ビル・ブラックWilliam Patton “Bill” Black、Jr.は、アイ・ワザ・ワンなどを録音して、その足でこのブラッドリー・スタジオにやって来たということなんですね。
で、これは、カントリー・チャートの9位までに上がりまして、ジョニー・ホートンのデビュー・ヒットということになりました。さて、このブラッドリー・スタジオの責任者は、オーエン・ブラッドリーOwen Bradleyと言いまして、彼はデッカの担当ディレクターだったわけですね。
でー、デッカと言いますと、55年にビル・ヘイリーのロック・アラウンド・ザ・クロックを大ヒットさせていますので、えー、そこへたくさんのでもレコードが集まるわけです。えー、その中に、テキサス・ラボックというところのディスクジョッキーがデッカに売り込んだでもレコードがあったわけです。で、デッカはその青年を気に入りまして、このブラッドリー・スタジオまでやって来て録音するようにという指令を彼に、伝えたわけですね。それで、その青年は、このブラッドリー・スタジオにやって来て録音をします。それが、デビュー曲となったわけですが、その青年の名は、バディー・ホリー。
Love Me / Buddy Holly
えー・最後は、ラブ・ミー・ドゥーと歌ってたように聞こえたんですけど、えー、これが、まあ、デビュー曲だったわけですね、バディー・ホリーの。ですから、エルビスがハートブレーク・ホテルを録音した月に、バディー・ホリーも同じナッシュビルで録音してたということになります。でー、バックには、先ほどのグラッディン・マーチンGrady Martinなどもサイドで参加しています。
えー、ドラムのジェリー・アリソンは、高校生だったので参加してないんですね。これ、授業があったので、来られなかったということです。で、このラブ・ミーは4月にデッカ・レコードから発売されましたが、ヒットされませんでした。で、また、ホリーは地元に帰って、デモ・テープをたくさん作るという日々に戻って行ったというわけです。で、ホリーの地元、テキサスのラボックにエルビスは演奏公演で来ていたそうですけども、もちろんホリーは見に行って、楽屋であったという話もありますね。いかにエルビスが好きだったかということは、次のカバーでも現れているという風に思います。
Baby Let’s Play House / Buddy Holly
ホリーのしゃっくり唱法も原点はエルビスだったわけですね。さて、ロサンゼルスで一番大きなレコード会社と言いますと、キャピトル・レコードがあります。
その中で、カントリー部門の担当者は、ケン・ネルソンKenneth F. “Ken” Nelsonと言いますが、彼のところにも、たくさん出も・レコードが来るわけですね。
バディー・ホリーの曲も地元のDJがデッカに送ったものでしたが、このキャピトルに送られてきたのは、バージニア州のノー・フォークというところから来たものでした。で、ケン・ネルソンは気に入って、すぐにレコードにしようと思ったわけですが、何しろ素人バンドなので演奏力に不安があったんですね。えー、そこでナッシュビルのブラッドリー・スタジオを使おうという風に考えたんです。ところが、バンドの演奏はうまかったので、プロのミュージシャンを使うことは無かったということです。1956年の5月4日、ナッシュビルのブラッドリー・スタジオにおきまして、ロックンロール史に永遠に残る名曲が誕生いたしました。
Be-Bop-A-Lula / Gene Vincent
えー、ビー・バッパ・ルーラ、ジーン・ビンセントでした。ブラッドリー・スタジオは54年にできて、エンジニアの腕が良かったんですね。ですから、フィード・バック・エコーの使い方がものすごくうまかったです。で、ウェー、ていうのがありましてね。ビー・バッパ・ルーラは、ウェーで始まりますが、この、ウェー、はおそらく、これだったんじゃないですかね。
Good Rockin’ Tonight / Elvis Presley
えー、やはり、どこにも、エルビスの影というのはあるわけで、えー、このジーン・ビンセントのノー・フォークには、エルビスがやっぱりやって来てるんだそうですね。55年の9月にハンク・スノウ・オール・スター・ジャンボリー・トゥアーというのがあって、エルビスはその前座で出たわけですが、ジーン・ビンセントはそれを見てロックンローラーになろうという風に決意したと言われています。
これも大ヒットいたしまして、カントリー5位、ポップ7位、R&B8位と、三部門制覇です。これ、3曲目の3部門制覇となったわけです。えー、しかし、ビー・バッパ・ルーラっていうのを聞くと、スーイ・スーイ・スーダララッタ、と同じですよね。
まあ、口癖みたいなもんですから、僕には同じように聞こえるんですけどね。で、ジーン・ビンセントは58年の8月に来日しまして、3回目のウェスタン・カーニバルに出ています。でー、僕の番組ではよく出てきます湊プロデューサーは、これを生で見たという風に発言しておられますが、古い方でございます。あ、歴史の証人という風に言い換えようかと思いますけど。さて続いては、コーラルレコードの新人です。トリオですね。ロックンロールトリオです。エルビスの広めた一つの功績と言いますか、3人いたらロックンロールはできるんだということで、3人組というのはジャンジャン出て来るというわけです。それで、ジョニー・バーネットとロックンロールトリオ。
Oh Baby Baby / Johnny Burnette & The Rock’n Roll Trio
えー、これはオリジナルという風に言ってんですけど、どう聞いても、ベイビー・レッツ・プレイ・ハウスでしかないですけどね。このジョニー・バーネットと、ジョニーとドーシーの兄弟ですけど、この二人は実はエルビスと故郷が同じなんですね。さらに、兄は、エルビスと同じ会社で働いていたそうです。でー、ですからエルビスのデビュー前の歌を聞いていたということですね。まあ、同じ会社の同僚がですね、大スターになっていくわけですから、若者としてはじっとしていられないという風になるのは当然だったと思います。さて、このニューヨーク録音がシングルでカットされましたが、ヒットしませんでした。そこでナッシュビルでの録音ていうことになるわけですが、コーラル・レコードは、デッカの系列ですから、ブラドリー・スタジオでの録音ということになります。取り上げたのは、R&Bのカバーです。
The Train Kept A-Rollin /Tiny Bradshaw
タイニー・ブラッドショーのトレイン・ケッタ・ローレン、これを見事なロックンロールに仕立て上げたのは、ギターの名手、グラディ―・マーティン
Train Kept A-Rollin’/ Johnny Burnette Rock’n Roll Trio
ジョニー・バーネットとロックンロール・トリオでトレン・ケッタ・ローレンでした。でー、ものによってはそろそろ歌以上にギターのフレーズの方が印象的だという曲もだんだん出て来るのも、この時代の特徴ですね。さて、これを弾いていたブラッディ―・マーティンは、このフレーズが得意だったんですね。他にも何曲ありますが、その一つを聞いてもらいましょう。先ほどの、ホンキー・トンク・マンを歌っておりました、ジョニー・ホートンの第3番目のヒットです。アイム・カミン・ホーム。
I’m Coming Home / Johnny Horton
ジョニー・ホートンのアイム・カミング・ホームでした。ですから、この頃はギタリストがどんな印象的なフレーズを引くのかということを、日夜考えていた時代だったと思うんですけど、先ほどのトレン・ケッタ・ローレンのジョニー・バーネット版はヒットしませんでした。でー、まー、これはご存知の方はご存知でしょうが、十年後ぐらいにイギリスで、まあ、大ヒットと言いますかねー、この曲が再発見されることになるんですけど、それにつきましてはそのうち、語る機会があるかという風に思います。さて、ジョニー・バーネットもエルビスの活躍を横目でにらみながら、なかなかデビュー・ヒットへの道というのは遠かったのです。で、先ほどのバディー・ホリーもなかなかヒットへの道は遠くて、でー、自宅でたくさん曲を作っていたわけですが、2度めにまたナッシュビルにやって参ります。で、2度めの録音の中にこの曲がありました。
That’ll Be The Day / Buddy Holly
えー、ザットル・ビー・ザ・デイ、バディー・ホリーでした。これはサポートメンバーなしで、バンドで演奏していたんですけども、この日は大体5曲くらい録音したんですが、すべてお蔵入りになりました。ま、確かに、演奏もちょっとこなれていないという感じはありましたけれども、ただ、これをお蔵入りにしたことが、契約でもめることの原因になりまして、いろいろなドラマが生まれていきます。ん、これはまた後でお話ししたいと思います。で、ホリーは11月にも、また3度目の録音をして、デッカから2枚のレコードを出すんですけども、いずれも不発に終わりまして、また故郷へ戻って、また、デモづくりをする毎日へと戻って行ったのであります。さて、デッカ・レコードで当時のナンバー・ワン・シンガーはウェブ・ピアス、出るレコード、出るレコード、全部1位になった人ですけど、さすがに第1人者だけあって流行に敏感なんですね。
えー、自分もロックンロール、やってみようということで、やったのがこの曲でございました。
Teenage Boogie / Webb Pierce
えー、バックコーラスはジョーダネアーズが務めていたんですがねー、ティーネージ・ブギーと言ってた割には、当人は当時35歳でございましたけども、これは新局ではなくて以前に、ルイジアナ・ヘイ・ライド用に作った、ヘイ・ライド・ブギ―というのがあって、それの焼き直しでありました、で、このティーネージ・ブギーを日本でデビュー曲として登場した人がおりました。
Teenage Boogie/かまやつヒロシ
ムッシューで、ティーネージ・ブギでした。むー、これをかけるのは、かけられるのはムッシューは嫌だったかも知れないですね。あのー、こういうの、やりたくなかったんだそうですね。かまやつさん、当時、トミー・コリンズTommy Collinsが大好きで、本格的なカントリー・ウェスタンをやりたかったんですけども、まあ、仕方なく、これをやってしまったということですが、んー、ですが、この時代のカバーとしては、僕はものすごく素晴らしいものだと思います。
で、かまやつさんは日本語のロックの始祖であるということは、まあ間違いでないことです。さて、このデッカ・レコードに35歳のウェブ・ピアスがいましたが、10歳の女の子が登場しました。
Jambalaya / Brenda Lee
ブレンダ・リーもデビューは56年だったんですねー。これはヒットはしなかったんですけども、その後大物になっていくということになります。バックは、もちろん、グラディー・マーチンをはじめとするバンドのナッシュビルのAティームと、後で呼ばれました。こういう風にヒット曲の背景には同じスタジオ・ミュージシャンがいたということですね。これは、この後もアメリカン・ミュージックに限らずなんですけども、どの音楽業界でもずっとあった話でございます。ブレンダ・リーは10歳で、ひばりさんは12歳のデビューでしたけれどね。
さて、前回、パート1で、ハートブレーク・ホテルのデモ・レコードを歌っていたという人を覚えておられるでしょうか。
Hear Break Hotel (demo) / Glenn Reeves
えー、一所懸命エルビスのマネをしていたグレン・リーブスという人で、この時にサン・レコードのマスターをRCAだけでなく、アトランティックにも売ろうとしたが、アトランティックでは、お金が無くて買えなかったと、えー、そういう話も前回いたしました。で、その証拠にと言いますか、アトランティックでもカントリー部門を始めたんですね。ここから、R&B専門だったんですけども、カントリーも始めて、その第1号がなんと、この、グレン・リーブスだったんですよ。さらにですよ、あのハートブレーク・ホテルを作ったあの3人、メイ・アクストンMae Boren Axton、トミー・ダーデンThomas Russell Durden、グレン・リーブスGlenn Reeves、この3人が作った曲を録音いたしました。ロッキン・カントリー・スタイル
Rockin’ Country Style/Glenn Reeves & His Rock-Billys
B面では有ったんですが、アトランティックもカントリーを始めた、珍しいもんだったという風に思います。さて、ハートブレーク・ホテルを作ったこの3人なんですけれども、他でもたくさん曲を作ったんですけど、あー、2曲だけですね、チャートインしたのは。で、他は全くはやらなかったんですね。やはり、ハートブレーク・ホテルというのは、エルビスが作った曲だったという風に、言って良いという風に思いますね。さて、コロンビアのプロデューサー、ドン・ロー、ジョニー・ホートンとかマーティー・ロビンスを担当していましたが、このドン・ローのところへ兄弟デュオの話が持ち込まれます。
で、持ってきたのはギタリストのチェット・アトキンスだったんですけれどもね。1955年の11月のことでした。で、ブラッドリー・スタジオBradleys studioの前身であるところのキャッスル・スタジオというのがあるんですが、えー、そこで録音されました。兄が18歳、弟が16歳、兄弟の名前はダン・アンド・デル。
Keep-A Lovin’ Me / The Everly Brothers
キーパ・ラビンミー、エバリーブラザースでした。でー、最初の録音ですからね、多少不慣れな感じはありますけれども、このドン・ローは、このレコードがヒットしなかったので、彼らとは契約しなかったのですね、その後。当時、コリンズ・キッズというのを彼は担当してまして、兄弟デュオは、そっちがあるから、いいんじゃないかと思ったんじゃないかと、私は推測してるんですけどね。
Beetle Bug Bop /The Collins Kids
えー、コリンズ・キッズでした。えー、ネットの動画サイトには、彼らの動画がたくさんアップされてるんですけども、お姉さんと弟の、この凸凹コンビですね。で、10歳だったですか、弟。で、彼がモズライトのダブルネック・ギターを早引きするんですよね。ですから、まあ、見た目には、コリンズ・キッズの方が売れるんじゃないかと、ドン・ローが思ったことも無理がないんじゃないかと思います。ここから、エバリーは2年間の沈黙を経まして、橙的に再デビューするんですけども、それはまた後で触れたいと思います。さて、今度はキャピトルのケン・ネルソンの方です。たくさんのアーティストの売り込みがありましたが、その中で、気に入らないのでNGにしたんですけど、B面は良いなということで、自分が担当しているアーティストに歌わせようとして、彼をブラッドリー・スタジオに連れてまいりました。
Young Love / Sonny James
えー、ソニー・ジェームスのヤングラブでした。これはビッグ・ヒットでしたね。カントリー1位、ポップ2位、なんと、R&Bでも3位まで上がったという3部門制覇の大ヒットだったわけですね。キャピトルのプロデューサー、ケン・ネルソンにとっては2枚目の3部門制覇の曲ということになりました。で、このように大ヒットを連発するので、ブラッドリー・スタジオの人気は段々高まって行って、これから、ミュージシャンのナッシュビル詣でというのが始まるわけなんですね。56年には、ビー・バッパ・ルーラ、ヤング・ラブという、こういう大ヒットも出ましたが、ヒットはしませんでしたが、後にロックンロール・スターとなったバディー・ホリー、ジョニー・バーネット、ブレンダリー、エバリー・ブラザースという人たちも、この時に録音していたということです。さて、ケン・ネルソンつながりでキャピトルの話をしたいと思います。そこで、女エルビスと言われたワンダ・ジャクソンが登場するんですが、彼女のデビュー曲を聞いてみましょう。
If You Knew What I Know / Wanda Jackson
このように純粋なカントリーを歌っていたワンダ・ジャクソンですけども、まあ、エルビスと出会ってと言いますか、ロックンロール路線に変わるんですけど、一時はエルビスと恋仲だったという噂もありました。ワンダ・ジャクソンでアイ・ガッタ・ノウ。
I Gotta Know / Wanda Jackson
えー、カントリーと思わせてロックンロールにするという、「ハイ、それまでよ」の作りになってましたね。56年6月にできたばかりのキャピトル・タワーでの録音でした。で、キャピトルには結構いいミュージシャンがいたんですね。ギターを弾いていたのは、名手ジョー・マフィスJoe Maphis、サイドを弾いていたのは若き日のバック・オーエンスBuck Owensでした。ワンダ・ジャクソンは59年の3月に来日してるんですね。日本で一番人気のあった曲はこれでした。
Fujiyama Mama / Wanda Jackson
えー、フジヤマ・ママ、ワンダ・ジャクソンでした。これは56年のR&Bのカバーだったんですけれどもね。
FuIIyama Mama / Annisteen Allen
えー、アニスティン・アレンANNISTEEN ALLENのフジヤマ・ママで、ワンダ・ジャクソンは子供の頃にこれが大好きで、ジューク・ボックスで何度も聞いていたということでした。んー、出て来る日本の地名が長崎と広島というのは、ちょっとねー、いかがなものかという感じはしないでもないですが、おそらく来日したのでこれが大ヒットしたんじゃないでしょうかね。さて、ジェリー・リードもキャピトルから、この56年にデビューしていたんです。
When I Found You/Jerry Reed
えー、ジェリー・リードでフェナイ・ファウンヂューでした。で、ギターの名手でもあるんですけどもね。で、彼がポップ・チャートに登場するのは、これから12年も後のことでした。
Amos Moses/Jerry Reed
我々がこのヒットを聞いたのは、彼のデビューから12年目だったということですね。えー、何やら彼のギター・スタイルに強く影響を受けたギタリストもおりましたが、強く作曲に影響を受けた人もどこかにいたようです。同じく、キャピトルにスキーツ・マクドナルドという大御所がいるんですけども、この時41歳だったんですが、ロックンロールに挑戦してみました。
You Oughta See Grandma Rock / Skeets McDonaId
ユー・オーラ・シー・グランマ・ロックというんで、婆さんのロックってんですかねえ。爺さんが歌った婆さんの歌で、間奏の掛け声が植木さんの「今日は死んだ気で行け―。」というのと同じような感じでしたけれども、これを取り上げましたのは、このバックでギターを弾いていた人を取り上げたかったからなんですね。ギターを弾いていたのはエディーコクランでした。
彼はデビュー前と言いますかね、売れてなかった頃はギタリストで、たくさんのセッションに参加しておりました。
さて、本日の最後は、ご本人ですね。エルビスが怒涛の1956年を過ごして、映画「ラブ・ミー・テンダー」まで公開したという、ここまではパート1でお話をいたしました。その後休暇をもらいまして、久しぶりに、故郷メンフィスに帰ってきて、で、自分の音楽の故郷でもあるところのサン・スタジオにふらりと現れました。そこで演奏されていた曲はこの曲でした。
Matchbox / Carl Parkins
カール・パーキンスは、ブルー・スエード・シューズ以来、大ヒットが出なくて、ここでピアノを入れたサウンドに変えようということで、ここでピアノを弾いていたのはジェリー・リー・ルイスでした。そのセッションにふらりとエルビスは入って行って、結果、このようになりました。
Don’t Be Cruel/Million Dollar Quartet
これに慌ててサム・フィリップスは録音のテープを回したので、これが残っているわけですね。
これが世に言われるところのミリオン・ダラー・カルテット、ジョニー・キャッシュもその場にいたんですね。
ジェリー・リー・ルイスはまだデビュー前だったんですね。
えーですから、サム・フィリップスは、ゴールデン・トリオ・プラス1くらいの感覚だったんじゃないかと思うんですけども、その後、本当にミリオンダラーカルテットという風になったわけです。たくさん、ゴスペルなどをいっぱい歌って、このアルバムだけで50分語ることはできるんですけども、その中で面白かったのは、チャック・ベリーのブラウンナイド・ハンサム・マン、えー、茶色の目をした伊達男って言うんですかね。
その歌をエルビスが歌い出して、全員がコーラスで参加するという、一緒に歌ってるというシーンがあります。全員、みんな、歌が好きなんだなあ、ということが良く分かるセッションとなっております。
Brown Eyed Handsome Man / Million Dollar Quartet
ミリオン・ダラー・カルテットと言われて、その後、レコード発売されたということですけれども、で、これがミュージカルになりまして、話題を呼んだんですね。故郷のメンフィスでも行われました。ブロード・ウェイでも行われて、えー、実は9月から日本でこのミュージカル公演が始まるという、非常にエルビスのサン・レコード時代の特集をした時に、同じ年にサム・フィリップスのミュージカルが見られるという、これもまた、何かの縁かという風に勝手に解釈しております。
アメリカンポップス伝、そのパート2の第1夜は、1956年にスポットを当てまして、たくさんのロックンロールのスターが、この時期に録音を開始したというお話をしました。それでは、また明晩。