大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート1 第2夜
2012年3月30日放送
(放送内容)
大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝。
本日はその2夜で、エルビス、サン・レコード時代というのをお送りします。
昨晩の1回目は1951年から1955年までのアメリカのヒットソング、カントリー、ポップ、R&Bのチャートのナンバー・ワン・ソングをたくさん聞いていただきました。で、エルビス・プレスリーのハートブレーク・ホテルがいかに衝撃的であったのか、ということを音で聞いていただいたわけです。
さて、本日はエルビスのサン・レコードに行く前に、ハート・ブレーク・ホテルよりも1年位前に大ヒットいたしましたビル・ヘイリーのロック・アラウンド・ザ・クロックから始めてみたいと思います。
Rock Around The Clock / Bill Haley & His Comets
1955年の夏ごろに大ヒットしましたロック・アラウンド・ザ・クロック、えー、この時代の映像を見ますと、派手なジルバを踊りながらこのロック・アラウンド・ザ・クロックをBGMで使われるという映像が、まー、多いと思うんですけどね。えー、ロックンロール、新しい音楽というよりは、新しいダンス・ミュージックとしてとらえられたというような感じも有りますね。で、このロック・アラウンド・ザ・クロックで出てきましたビル・ヘイリー。
えー、日本ではどうしてもあのヘアスタイルから横山ノックさんを思い出さずにはいられないんですけれども。えー、余談ですが、ノックさんはビル・ヘイリーをまねしたのではなく、マーロン・ブランドをまねしたと上岡龍太郎から伺ったことがあります。
で、あのー、マーロン・ブランドがナポレオンをやったんですね。で、ナポレオンの時に、ああいうヘアスタイルというのでノックさんはそれを見てすぐに真似したということです。確かに、ナポレオンがああいうヘアスタイルですから、ビル・ヘイリーはナポレオンをまねしたのかも知れないですね。でー、日本のロッカーが、彼はロックンローラーじゃない、という風に発言したという噂も聞いたことがありますけれども、それではビル・ヘイリーは最初からあのような、ロック・アラウンド・ザ・クロックのようなスタイルをやっていたのかと言いますと、彼の最初のレコーディングは1946年ですから、1955年より9年も前に、えー、レコードデビューをしていたんですね。ですから1位になったときは、苦節9年目の苦労人だったわけです。
最初のレコーディングは1946年1月に行われました。
ブギ・ウギ・ヨーデル
Boogie Woogie Yodel /Bill Haley & The Down Homers
これはブルー・ヨーデルのジミー・ロジャースのスタイルですねー。
ビル・ヘイリーとダウン・ホーマーズというグループ名でした。
素朴で気取らない人たちだったんでしょうね。で、その次に名前を変えてフォー・エーセス・オブ・ウェスタン・スプリングという、これまたウェスタンが付きましたね。えー続いて、ビル・ヘイリーとサドルマンという、馬の鞍ですから、ウェスタンをやっていたということなんですね。
で、なかなか、5、6年やったんですけども、ヒットが出なくて、イメージチェンジをします。R&Bをカバーするんですね。それがこの曲でございました。
Rocket 88 /Bill Haley & The Saddlemen
えー、これは1951年のR&Bチャートのナンバー・ワン・ソングのロケット・エイティー・エイトで、ジャッキー・ブレンストンという名前だったんですけど、実際に曲を作って、ギターを弾いて、歌っていたのはアイク・ターナー、後のティナ・ターナーの旦那になる人ですけどもね。
アイク・ターナーのロケット・エイティー・エイト、これをカバーすることによって、ウェスタンバンドからロックンロール、ロカビリー・バンドの方に、ビル・ヘイリーは変わっていきます。これが51年のことだったんですね。で、52年になりますと、またこの路線を続いて、R&Bのカバーをまた続けた、ということになります。で、名前もサドルマンからコメッツという風に変えたのでございます。
ロック・ザ・ジョイント
Rock The Joint /Bill Haley & His Comets
えー、ロック・アラウンド・ザ・クロックと全く同じ間奏だったわけですから、大ヒットする、ナンバー・ワン・ヒットになる3年前のロック・ザ・ジョイントで同じ間奏を既に弾いていたということです。で、このオリジナルは、ジミー・プレストンという人ですね。えー、
Rock The Joint / Jimmy Preston
えー、ロケット・エイティ・エイト、ロック・ザ・ジョイントという風にR&Bをカバーすることによってビル・ヘイリーは段々ロックンロール・バンド、ロカビリー・バンドという風になっていくわけですね。で、ロケット・エイティ・エイトが51年、ロック・ザ・ジョイントが52年ということで、53年についにオリジナルの大ヒットが出ます。
それがクレイジー・マン・クレイジー
Crazy Man Crazy / Bill Haley & His Comets
この曲はポップ・チャートにも入ったんですね。12位まで上がったんです。で、ビル・ヘイリーの最初のチャートされたクレイジー・マン・クレイジーという曲でした。
ですからポップ・チャート誌上では、初のロックンロールという風に言う人もいます。で、あの、このクレージー・マン・クレイジーの演奏をしている動画を見たことがあるんですけども、えー、ベースの人、ダブル・ベースの人がベースを横倒しにして、それにサックスが乗っかってサックスを吹くとか、そういうようなステージングをやっていたんですね。
(ウッドベースの上にのぼる姿です。)
でー、それを見た時にクレイジー・キャッツを思い出したんですよ。
あの、犬塚さんと安田さんもそういうことやってましたからね。で、キューバン・キャッツだったクレイジー・キャッツが米兵から「ユー、クレイジー」という風に言われて、クレイジー・キャッツになったという話が、有名な話がありますけども、その米兵もひょっとすると、このビル・ヘイリーのクレージー・マン・クレージーを、あれを、テレビかなんかで見てたんじゃないかという風に、そのビル・ヘイリーの動画を見て、私、ちょっと、その考えたんですけどね。それで53年にクレージー・マン・クレージーで大ヒットしましたので、この路線を続けようということで、54年にもまた、R&Bにカバーを出したのでございます。
Shake, Rattle a Roll/Bill Haley & His Comets
この曲は1954年のR&Bチャートのナンバー・ワンを取りました。ジョー・ターナーのオリジナルの曲だったんですね。
で、ビル・ヘイリーはポップ・チャートで7位まで上がりまして、えー、ジョー・ターナーもポップ・チャートで22位にランクされるというくらいに、1954年にこのシェイク・ラットル・アンド・ロールは大ヒットしたわけでございます。
そして55年に、
Rock Around The Clock /Bill Haley & His Comets
これが大ヒットしたんですね。
でー、この曲は54年、前年に出ていたらしいんですが、55年にヒットしたには理由がありまして、ブラック・ボード・ジャングルという映画のテーマソングだったんですね。
で、イントロとエンディングにかかりますけれど。ブラック・ボード・ジャングル、黒板密林とでも言いますですかね。邦題が「暴力教室」ということで、あのー、学級崩壊の映画だったんですね。校内暴力とでも言いますかね。で、1955年の前年、1954年と言いますと日本では、木下啓介監督の「二十四の瞳」が公開されて、高峰秀子さんの大石先生で日本中がみんな涙してたんですね、54年に。
55年にはアメリカでは学級崩壊が起きていたということで、日本も80年代にそこまで追いついたようです。まあ、こういう面は追い付かなくてよかったことだとは思ったんです。まあ、その、ロック・アラウンド・ザ・クロックは大ヒットしたということで、R&Bにもチャートされて、R&Bチャートでは3位まで上がったんです。
んー、ということは、カントリー畑の人ですから、カントリーチャートにもチャートされてるだろうと思って、探したんですが、まったく影も形もないんですね。彼らはカントリーとは認められなかったんですね、この曲が。ここが面白いところなんですね。ロック・アラウンド・ザ・クロックは、ポップとR&Bではチャートされましたが。ですから、エルビスのカントリー、それでポップ、R&Bと、それで1位になったという、1位、1位、3位になったというのはどれくらいの快挙であったのかということなんです。
では、エルビスがその3部門制覇の最初の人だったんでしょうか。えー、実は違うんです。エルビスよりも前に3部門制覇した曲がありました。
Blue Suede Shoes/Carl Perkins
このブルー・スエード・シューズ、カール・パーキンスです。
これが史上初の3部門制覇の曲だったんですね。ま、戦前に3部門制覇と言われているピストル・パッキン・マーマ(Pistol Packin’ Mama)と言われてる曲も有りますけども、あの時期はまだチャートが整備されていない時期だったので、参考程度のものだったとは思います。
ま、3部門制覇したという風にも言われてます。ま、間違いなく戦後はこのブルー・スエード・シューズが最初の曲です。なかなか、この3部門というのはチャートされないんですね。ハンク・ウイリアムスはR&Bには一回も出たことはありません。ま、当然でしょうがね。
と言って、レイ・チャールスも、カントリー・チャートには、例えば、「愛さずにはいられない」なんて、カントリー・ソングなんですが、ポップであんなにはやったのに、カントリー・チャートには一度も顔を出さなかったんです。
あの、R&Bとカントリーの壁というのはものすごく分厚いものがあったんですけども、それをエルビスも、そしてその前にこのカール・パーキンスのブルー・スエード・シューズ、えー、55年の暮れですね、56年の1月に発売されておりまして、エルビスよりも1か月早かったんです、リリースが。ま、それも、エルビスよりも先にチャートされたということもあると思いますが、なかなか、カントリーとポップで1位になっても、R&Bまで、R&Bは2位です。で、カントリー1位、R&B2位、ポップ2位というものすごいヒットだったんですね。それでは、カール・パーキンスは最初から、このようなブルー・スエード・シューズのようなスタイルだったのでしょうか。えー、最初のレコーディングは54年の10月です。で、みんなで車で旅をしていたら、メンフィスを通りかかって、レコーディング・サービスというスタジオを見つけて、「あー、じゃ、ちょっと、ここでレコーディングをしていこう」という風にして録音しました。1954年の10月ですね。曲はホンキー・トンク・ベイブ。
Honky Tonk Babe/ Carl Perkins
えー、聞いて分かる通りハンク・ウイリアムスですね。ハンク・ウイリアムスのような曲をやってて、自分の曲では有るんですけど。もー、まったくスタイルがハンク・ウイリアムスです。で、今時はエルビスがサン・レコードのいることは、カール・パーキンスは知らなかったそうです。で、最初のこのサン・レコードと契約して出しましたシングルがムービー・マグという曲です。
Movie Magg / Carl Perkins
えー、まったくハンク・ウイリアムス、ジャンバラヤと言いますか、こういうタイプの曲を最初はやっていたんですね。で、これが第1弾シングルですが、第2弾シングルは、レット・ザ・ジュークボックス・キープ・オン・プレイングというのが2弾シングルでした。
Let The Jukebox Keep On Playing/ Carl Perkins
えー、フィドルの人は、もう少しちゃんとチューニングしておいてほしいという感じも有りますけど、更にハンク・ウイリアムスですよねー。確かにハンク・ウイリアムス亡き後、ポスト・ハンク・ウイリアムスという争奪戦という市場はありましから、それを狙ってリリースしたということも考えられますし、まー、よほどハンクウイリアムスが好きだったんですね。では、カール・パーキンスは、どのへんであのブルー・スエード・シューズのようなスタイルに変わったんでしょうか。えー、実はこの曲のB面なんですね。このレット・ザ・ジュークボックス・キープ・オン・プレイングのB面にゴーン・ゴーン・ゴーンという曲が入っていました。これがもうすでにブルー・スエード・シューズのスタイルでございました。
Gone, Gone, Gone /Carl Perkins
まあ、後から考えれば、このゴーン・ゴーン・ゴーンをA面にしておけばという風には思うんでしょうけど、これは後で分かることでございまして、55年の2月の辺りというのは、まだ先ほどのハンク・ウイリアムスのような曲をシングルのA面にするというような、そういう風潮の、まだそういう時代だったんですね。で、55年夏に、先ほどかけましたロック・アラウンド・ザ・クロック、これが大ヒットしますから、ようやく、ああいうようなロックンロール、ロカビリーのようなものをA面で切ってもいいというようなことになって、それで第3弾に
Blue Suede Shoes /Carl Perkins
と、こういう風に自分のスタイルの曲にしてA面で切ったら、こう、カントリーでも、ポップでもR&Bでも大ヒットしたということですね。それがたまたまですか、メジャー・デビューを控えていたエルビスよりも1か月早かったという、この辺がみそですよね。同じサン・レコードにいたわけですからね。カール・パーキンスとエルビス・プレスリーというのもなかなか不思議な縁のあった二人でございました。
My Happiness / Elvis Presley
<(加賀美幸子アナウンサー)エルビス誕生。輝かしきサン・レコード時代>
えー、加賀美さんありがとうございました。えー、あの、これは1986年に、あのNHKFMで放送いたしましたエルビス・フォー・エバーという私のディスク・ジョッキーでお送りしましたが、その時にナレーションをしていただきました、それを再使用いたしました。ありがとうございました。ていうことで、ようやく、やっと、エルビスが出てきますけれど、ほんとにあの、ゴジラやジョーズじゃないんですから、なかなか出てこないという、そういう構成になってしまいましたけれども、で、エルビスがサン・レコードへきて録音したのは1953年の7月の18日のことでした。で、まあ、1953年7月18日と言いますと、えーまー私事でございますが、私は4歳の誕生日を迎える直前でございました。でエルビス・プレスリーは昭和10年生まれですから、日本では同年代では、小坂和也さんがいますね。
で、ちょっと前に生まれたのが裕次郎さんで、1年後が長嶋さん。まあ、ですから、裕次郎、長嶋という時代とエルビスは同じ世代の人なわけです。で53年の7月は、エルビスは18歳でした。で18歳でレコードを作りにやってきたわけですね。で、最初に録音されたのは、マイ・ハッピネスという曲でした。で、これは、長い間見つからなかったんですね。その、録音の存在が分からなかったんですけれども、90年前後に、何か見つかったということで、これはエルビスの、この世に存在する最初の歌声ですね。
マイ・ハッピネス
Elvis Presley – My Happiness (1953)
えー、これがエルビスの最初の歌ですね。マイハッピネスです。全く変わってないですね。もう、最初から、この人は出来上がってた人だなということが、あの、この歌を聞くと分かりますねえ。で、オリジナルはちょっと古い曲なんですね。で、オリジナルのスティーラーズというグループの、このバージョン、ちょっと聞いてみましょう。
My Happiness /Jon & Sondra Steele
で、これはいろんな人がカバーしてるんですね。エルビスはどのバージョンを聞いたんだろうというようなことが話題になったり、ファンの間で話題になったんですけども、エラ・フィッツ・ジェラルドがこの曲を歌っていたんですね。で、エラのバージョンを聞いてみましょう。
My Happiness/ Ella Fitzgelald
えー、おそらく、エルビスはこのバージョンを聞いていたんだと思いますね。で、あの、アメリカのポップソングの一つの決まりごとのようなことがありまして、1番と2番で同じ部分が出てきた場合に、歌い方を変えるというのがあるんですね。これはカントリーも、ポップも、R&Bもみんなやるんですけど、まあ、ジャズの人はそれをフェイクなどと呼んでいますけど、それをエルビスがどう歌ったのかというのも、この最初のマイ・ハッピネスの中にも、エルビスの力量が分かる部分というのがあるんですね。で、オリジナルのスティーラーズのその部分を聞いてみましょう。
My Happiness /Jon & Sondra Steele
ゼアル・ビー・ノウ・ブルー・メモリー・ゼンという、あの錆びの途中なんですけども、そのゼンだけ上げるんですね。これがもうオリジナルなんです。これをエラ・フィッツ・ジェラルドはどう歌ったか。
My Happiness/ Ella Fitzgelald
これはすごいです。ゼアル・ビー・ノウ・ブルー・メモリー・ゼンという風に歌うんですね。それをエルビスはどう歌ったでしょうか。
Elvis Presley – My Happiness (1953)
これはすごいですね。エラとも違って、ゼアル・ビー・ノウ・ブルー・メモリー・ゼンという風に、ブルーにアクセントを置きますよね。これ、ブルー・クリスマスなんかにも、こういうような歌い方やりますけども、エラ・フィッツ・ジェラルドとも違うこの18歳の青年、これは恐るべき歌唱力を持っていた人だという風に思えますね。
で、B面でもう一曲、あの、2曲歌ったんですけども、それもまたバラードで、ザッツ・ウェン・ユア・ハーテイクス・ビギンという「心のうずくとき」という邦題が後に着いたんですけどもね。えー、これをまた聞いてみましょう。
That’s When Your Heartaches Begin / Elvis Presley
あー、ザッツ・ディ・エンドで終わっちゃったんですね。という風に、この語りですね。後にアー・ユー・ロンサム・トゥナイトで語りも入れます。それから、この曲はRCAになって、ちゃんとしたバージョンで録音されてます。これでもまた、語りはありました。で、この曲はたくさんカバーされてますので、エルビスはどのバージョンを聞いていたか、インク・スポッツのこのバージョンを聞いていたのではないかという風に言われています。
That’s When Your Heataches Begin / The Ink Spots
あのー、エルビスはものすごくコーラスグループが好きで、コーラス・グループのリード・シンガーになりたかったというような希望もあったそうですね。で、この頃、あのー・ゴスペルのグループにオーディションを受けに行ったりとか、そういうこともしていたそうです。で、インク・スポッツはとにかく大好きだったということですね。で、レコード、作ったんですけども、一説にはお母さんのプレゼントだとかそういうような、有名な話もありますけども、お母さんの誕生日は7月18日前後じゃなかったらしくて、どうもそれは作り話だったらしいんですね。で、要するに、あれですよね、サム・フィリップスが聴いてくれるだろうてなことで録音しに行ったんだと思います。
で、ところが半年たっても、何の連絡も来ないので、1954年の1月に、半年たってまたサンレコードに行くんですね。そこでまた2曲録音することになりました。1曲目は、アイル・ネバー・スタンディン・ユア・ウェイという曲です。
I’ll Never Stand ln Your Way / Elvis Presley
これが、アイル・ネバー・スタンディン・ユア・ウェイ、けっこう有名な曲なんだそうですが、当時この人のバージョンが結構ヒットしていたということで、ジョニー・ジェームス、女性シンガーでね、ジョニー・ジェームスのを聞いてみましょう。
I’ll Never Stand ln Your Way / Joni James
これはやっぱり、ずいぶんこの人からとってますね。エルビスはね。えー、ところがこのレコードもどっかへ行ったらしくて、6月くらいになって、どっかでサム・フィリップスが手に入れて、この男性シンガーを探せということで、ようやくエルビスに連絡がきたんですね。
もう、丸々1年待ったわけです。で、サム・フィリップスは、その6月ぐらいに知り合いのミュージシャンにエルビスを預けることになったんです。その知り合いのミュージシャンというのが、サン・レコードで、レコードを出していたダグ・ポインデックスターという人のバック・バンドにいたギタリストとベイシストです。ギタリストがスコッティ―・ムーアで、ベイシストがビル・ブラックです。で、この二人がダグ・ポインデックスターで、どんな演奏をしていたのかというのを、ちらっと聞いてみましょう。
My Kind of Carrying On / Doug Poindexter
えー、これが、まあ、スコッティ―・ムーアのギターだったんですね。
間寛平さんが歌ってんのかと思ったりしたんですけどね。ここまでは、ギター1丁でエルビスが歌っていたわけですけど、バックが付いたということになりまして、54年の7月の5日ですね、初めてサン・レコードに来てから1年経ちまして、エルビスが最初のレコーディングをするという、まあ、最初のレコーディングばっかりですけどね。で、1曲目に選ばれたのがハーバー・ライトという、日本では、ま、プラターズとかそういうので、ダダダ・ハーバー・ライトという、まあ、有名な曲ですよね。
これが選ばれたんです。
それではエルビスのハーバー・ライトを聞いてみましょう。
Harbor Lights / Elvis Preley
んー、エルビスのハーバー・ライトでした。やはり、あの、コーラス・グループのリード・シンガーになりたかったんですよね。えー、バラード・シンガーなんですよね、ここまで聞いた限りではね。で、後にたとえば、ラブ・ミー・テンダーとか、アー・ユー・ロンサム・トゥナイトとか、まあ、ブルー・ハワイとか、ああいう曲を出すたびに、「エルビスはイメージ・チェンジした」とか言われたものなんですけど、逆なんですよ。本来はこういう歌が好きで、こういうタイプの歌を歌いたかった人だったんです。で、このハーバー・ライトは名曲で、たくさんの人が歌ってますけれども、ダイナ・ワシントンが歌ってますんで、これを聞いてみましょう。
Harbor Lights / Dinah Washington
えー、さすがにダイナ・ワシントンぐらいになってくると、最初からまともなメロディーじゃなく、最初からフェイクで来るという、えー、すごい歌ですけどね。それからコーラス・グループでシックスティ・ミニッツ・マンのドミノーズというグループがいて、このリード・シンガーはクライド・マクファターと言いました。
クライド・マクファターもエルビスは大好きだったんですね。で、ドミノーズもハーバー・ライトを歌ってますんで、クライド・マクファターのバージョンでハーバー・ライト。
Harbor LighIs / The Dominoes
こう歌われちゃうと、こっちのメロディーの方が正当なメロディーなのかと思ってしまいますけれども、エルビスの歌は、まったくどちらでもないですね。前例があったのか、エルビス独自の解釈だったんではないでしょうか。ハーバー・ライトに続いて録音されたのが、アイ・ラブ・ユー・ビコーズという、オリジナルはレオン・ペインという人の作った歌ですけども、アイ・ラブ・ユー・ビコーズ。
I Love You Because / Elvis Presley
えー、この人はバラードをこの後たくさん歌いますけども、まったくこの通りですね。ずーと、このような歌い方。最初から、このような歌い方、出来上がってますね。ノー・マララ―ていう、巻き舌が入るところはまたすごいですよね。で、オリジナルのこのレオン・ペインのバージョンを聞いてみましょう。
I Love You Because / Leon Payne
えー、オリジナルのレオン・ペインはちゃんと、ノー・マター、と正確に発音していましたよね。ノー、マララ―はないですよね。でもこのオリジナルのバージョンは、エルビスは聞いていたというか、まあ、それを取ったわけではないですよね。ま、おそらく・次のバージョンではないかという風に言われているんですけども、それがエディ・フィッシャーのバージョン。
I Love You Because / Eddie Fisher
間違いなく、エディ・フィッシャーのバージョンのバージョンを聞いていた。ノー、マララと軽くこちらも巻き舌にはなってましたけど。でも、エルビスのバージョンはものすごく、スロー・テンポにして全くこの二人とも違う解釈の仕方で、素晴らしい・アイ・ラビュー・ビコーズになっていたという風に思います。まだ、この頃19歳でアマチュアだったわけですけどね。もう、プロの歌手に伍する歌唱法だったという風に、思います。
大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝、その第2夜は、エルビスが最初にレコーディングした、マイ・ハッピネスなどを中心にでもレコーディングなどをたくさん聞いていただきました。エルビスはバラードシンガーであったわけです。
さて、明日のこの時間はいよいよ本格的にロックンローラーとしてスタートします。えー、それについてお話ししたいと思います。それではまた明晩。