ポップ・ミュージック産業は、50年代初頭におけるアメリカの白人をほぼ抑えていた。ラジオから流れるジャズやクラシック音楽は、第二次世界大戦の前後にはレコード売上でほとんど利益を上げなかった。ジャズやクラシックのレコードを買ったのは、アメリカでこの音楽に惹かれた一部の音楽愛好家だった。アメリカの白人主流派から難解だと思われていた音楽は、アメリカ中のジャズ・クラブやシンフォニー・ホールでしか聴くことができなかった。「ブルースblues」と呼ばれる音楽は、奴隷制度が始まった頃から存在していた。
ブルースは、深南部で綿花の畑仕事をしながら歌う奴隷たちによって始まった。このブルースは「レースrace」あるいは「セプタsepta」音楽と呼ばれ、白人主流派社会からは完全に拒絶された。この音楽はアメリカ各地の黒人コミュニティでしか聴くことができなかった。この「ブルース」と呼ばれる音楽を流すラジオ局も録音するレコード会社もなかった。50年代初頭までには、ブルースやリズム&ブルースを流すラジオ局はほんの一握りで、この音楽を録音するのは小さな黒人レコード会社だけだった。
ロバート・ジョンソンRobert Johnsonというブルース・シンガーが、30年代最初のレコーディング・アーティストとなり、黒人文化にこの音楽を普及させる大きな役割を果たす。
50年代後半までには、ジョン・リー・フッカーJohn Lee Hooker、マディ・ウォーターズMuddy Waters、ジミー・リードJimmy Reedがアメリカでブルースの人気を高めることになる。
しかし、この音楽はレースやセプタの音楽というレッテルを貼られ、おとなの白人文化からは拒絶され続けた。
1946年までに、新しいスタイルの黒人音楽がアメリカ中で聴かれるようになった。この黒人のジャンルはブルースの影響を受けていたが、その音楽はダンス・ビートのブルースだった。この音楽はまだ、レースやセプタの音楽と呼ばれ、おとなの白人文化からは拒絶されていた。その後、1949年に その名前は「リズム&ブルースrhythm and blues」へと変化する。しかし、R&Bという新しい名称がついても、主流文化の中ではレースとセプタの音楽のままであった。1948年までに、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスなどの都市部に住む黒人の大人たちは、リズム&ブルースの一形態である「ドゥーワップdoo wop」ミュージックを始めた。これらの若い黒人男性は、自分たちをドゥーワップ・グループ(自分たちの音楽に名前をつけた)と呼んだ。1954年、テネシー州メンフィスにあるサン・スタジオSun Studiosから、南部を中心とした新しいスタイルの音楽、「ロカビリーrockabilly」と呼ばれる音楽が生まれた。
この音楽は、南部の若い白人ミュージシャンによってレコーディングされていた。エルビス・プレスリーElvis Presleyは、ロカビリー・ミュージックを録音した最初のロカビリー・アーティストとして歴史に名を残すことになり、さらに重要なことに、アメリカにおけるロカビリー・アーティストの波を生み出した。
しかし、後に続くロカビリー・アーティストたちとは異なり、エルビスはサン・レコードで大人向けのリズム&ブルースの曲を選んだ。1956年、RCAレコードに移籍し、ティーンエイジャー向けの曲を選ぶようになる。
例えば、「ただ一人の男I Was The One」、「テディ・ベアーTeddy Bear」、「想い出の指輪Wear My Ring Around Your Neck」といった曲だ。
1955年1月、リズム&ブルースはロックンロールになる。ニューヨークの人気ディージェイが、リズム&ブルースをロックンロール・ミュージックに変えることによって歴史を作ったのだ。彼は、エルビス・プレスリーが全米ナンバーワン・アーティストになる1956年まで、ロカビリー・ミュージックをロックンロールと見なすことを拒んだ。最初はレース/セプタ音楽と呼ばれ、まだ黒人音楽とみなされていた特定ジャンルの音楽を正当化する方法として、リズム&ブルースになったのだと思う。この音楽を更にロックンロールに変えることで、新しい概念的枠組みへと変化するという意味を持ち、アメリカの白人ティーンエイジャーが自分の音楽として受け入れられるようになった。アメリカの白人ティーンエイジャーが初めて自分たちの音楽を手にし、1955年に歴史が作られたのだ。