アランフリード③
1953年末には、クリーブランドから発信されたアラン・フリードのロックンロール・ラジオ番組がニューヨーク市全域で聴かれるようになっていた(ニューヨークのWNJR局には録音済みテープが送られた)。
1954年8月、フリードはニューヨークのWINSラジオ局から断れないオファーの電話を受けた。
フリードはニューヨーク市のWINS局ディージェイとして、年俸7万5000ドルを提示された。これはラジオ業界では聞いたことのない報酬だった。WINS局はまた、フリードにニューヨーク市全域で彼のステージ・ショーを行う時間を与え、WINSラジオ局でそのショーを宣伝する時間を与えてくれた。その申し出を受け入れ、1954年9月にクリーブランドからニューヨークへとラジオのロックンロール番組を移した。
フリードは1955年1月14日と15日に、セント・ニコラス・アリーナSt. Nicholas Arenaで行われるロックンロール・ジュビリー・ボール・ショーRock ‘n’ Roll Jubilee Ball showをWINS局で発表した。クリーブランドにおけるフリードの最後のショーにかなりの数の白人のティーンエイジャーが参加したことで、ニューヨークに降り立ったフリードの考えが変わったと、私は信じている。フリードは今、彼のステージ・ショーで演奏し、普及させている音楽をロックンロール・ミュージックと呼ぶことに決めた。
1952年に活動を始めてから1954年にクリーブランドを去るまで、フリードは自分のステージ・ショーで演奏し、普及させた音楽を「リズム&ブルース」と呼んでいた。1955年1月14日と15日、フリードはロックンロール・ジュビリー・ボールのショーでさまざまなアーティストが演奏した音楽をロックンロール・ミュージックと呼ぶようになった。彼がレコードをかけ、普及する音楽を表現するのに、リズム&ブルースを使うことは二度となかった。クリーブランドにいた1951年にフリードが「ロックンロール・ミュージック」という言葉を作り、ミンツ・レコード・ストアにいたティーンエイジャーは白人だったというのが神話の定説だ。アルコール依存症は認識に関する病気である。フリードは慢性的なアルコール依存症で、生涯を通じて何度も事実を歪めた。
私は、フリードが意識的かつ意図的にリズム&ブルースをロックンロールに変えたのは、10代の白人文化に黒人音楽を売り込むためだったと考えている。フリードがやったことはリフレーミングだと考えたい。ジョン・ウィークランドJohn Weaklandが説明する「リフレーミング」とは、「ある状況が実現する際の概念的、感情的な設定や視点を変え、具体的状況の事実を同等以上に適合する別のフレームに置き換えることであり、それによってその状況全体の意味を変えること」である。