ウルフマン・ジャックWolfman Jack(ロバート・ウェストン・スミッティ・スミスRobert Weston “Smitty” Smith(1938-1995)、ニューヨーク州ブルックリン
1951年、スミッティは友人たちと地下室でラジオをよく聴いていた。スミッティは南のディキシーでお気に入りのディージェイを見つけたが、それは、ナッシュビルのWLAC局のジョンR John R、ジーン・ノーブルズGene Nobles、そしてホス・アレンHoss Allenだった。
1955年になると、彼は勇気を出してディージェイのアラン・フリードAlan Freedに仕事がないかと尋ねた。スミッティはフリードから「出て行け、小僧、邪魔するな」と言われたのを覚えている。スミッティは車を借り、ジョンRに会うためにブルックリンからナッシュビルへ向かった。この経験が功を奏し、ジョンRはスミッティにラジオ・ビジネスについて知っていることをすべて教えてくれた。1961年、スミッティは結婚して小さな娘もおり、バージニア州ニューポートニューズでパートタイムのディージェイとして働いていた。新しい放送局のオーナーはリズム&ブルース・ミュージックを嫌ったため、スミッティは家族とともに深南部地方に向かい、ルイジアナ州シュリーブポートでカントリー・ミュージックをかけるディージェイの仕事を得た。夜になると、スミッティはメキシコ国境のラジオ局を聴いていた。
ジョンRの影響を受けたロバート・スミスは、トップ40のディージェイであることに嫌気がさし、60年代にカリフォルニア州との国境にあるメキシコに自分のラジオ局を買った。
ドッグフードやダイエット・ピルから鶏の雛に至るまで、あらゆるものを通信販売し、年間15万ドルを稼ぐスミッティの生活は順調だった。メキシコの盗賊が自分のラジオ局を乗っ取ろうとしたとき、彼は(高性能の銃で)自分のラジオ局を守った。
ウルフマンはロックンロール誕生の後に登場したが、60年代を通してこの音楽をアメリカ国外でライブ放送し続け(トップ40のフォーマットを使わずに)、ミネアポリスなどのいくつかのラジオ局と、さらに国境にある2つのラジオ局に資金を投じた。彼は「ザ・ウルフマンThe Wolf-man」として、カリフォルニア中のティーンエイジャーを相手にディージェイとして大成功を収めた。このことは、1973年のハリウッド名作映画「アメリカン・グラフィティAmerican Graffiti」にもよく描かれている。
映画の中で、10代の少女がホットロッドに乗ってメインストリートをクルージングするシーンがあり、「私はウルフマンが大好きなの。両親はきかせてくれないんだけど」と言う。
1970年、彼はベトナムで軍隊ラジオthe Armed Forces Radioと16年間の契約を結び、世界中の軍人のためにレコードをかけていた。俳優ロビン・ウィリアムズRobin Williamsが出演したハリウッド映画「グッド・モーニング・ベトナムGood Morning Vietnam」は、ザ・ウルフマンにインスパイアされたものだと思えてならない(この推測に確証はない)。
70年代、スミッティはロサンゼルスでディージェイの仕事を引き受けた。その1年後、WABC局のディージェイの職を年間35万ドルで引き受け、有名なディージェイ、カズン・ブルーシーCousin Brucieに対抗した。
1974年、ウルフマンはニューヨークを離れ(ニューヨーク滞在中に薬物問題を抱えていたことを認めている)、ナッシュビルでラジオとテレビを担当することになった。1989年、スミッティはカントリー・ミュージックのラジオ局でディージェイを務めていた。80年代後半、スミッティはノースカロライナ州にベルベデア・プランテーションthe Belvedere Plantationという225年の歴史を持つ大農場を購入した。その地所は、妻が子供の頃に育った地域にある。ウルフマンは、引退後、各地で展示会を開くと、彼のサインを求めるファンで長蛇の列ができると語った。ノースカロライナで数年間の引退生活を送った後、残念なことに1995年に亡くなった。ウルフマン・ジャックはラジオの殿堂とロックの殿堂パイオニア功労賞に入っている。「ロックの殿堂」入りに値する人物であり、ロールンロールの誕生とその存続に大きく貢献した。