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ジェームス・ブラウンJames Brownは1956年、ジョージア州メーコンのローカルな黒人クラブで歌っているところを、ブラウンにレコード契約をオファーしに千マイルを旅したキング・レコードのレコード担当重役に見出された。
ブラウンは契約書にサインし、レコード・スタジオに車で戻り、「プリーズ、プリーズ、プリーズPlease, Please, Please」をレコーディングした。
ジェームス・ブラウンの大ヒット曲だ。シド・ネイサンは(自分のオフィスで)この曲を聴いた後、「プリーズ・プリーズ・プリーズ」を気に入らず、ジェームス・ブラウンと彼を発掘したレコード担当重役をその場で首にした。
アメリカの白人ティーンエイジャーが黒人レコードを求めるようになるにつれ、このように全米各地のパフォーマーを発掘するやり方は、黒人音楽専門の独立系レコード会社にとって優先順位の高いものとなった。アトランティック・レコードは、レイ・チャールズRay Charles、ジョー・ターナーJoe Turner、ラバーン・ベイカーLaVern Baker、ルース・ブラウンRuth Brown、ドリフターズThe Drifters、クローバーズThe Cloversから始まった。
チェス・レコードChess Recordsは、ムーングローズThe Moonglows、チャック・ベリーChuck Berry、ジェシー・ベルビンJessie Belvin、ティーン・クィーンズ The Teen Queensが皮切りだった。
第二次世界大戦後、「リズム&ブルース」と呼ばれるこの新しいサウンドはアメリカで成長し、独立系レコード会社も同様に成長した。その多くは、レコード店や酒屋の裏で営業していた。歴史的に黒人の音楽を録音してこなかった大手レコード会社は、自分たちの利益を減らすこの新しい黒人音楽にどう対処すべきか途方に暮れていた。大手レコード会社がこの新しいトレンドを認識できなかったとき、彼らは商魂たくましい独立系レーベルに門戸を開き、無視されていた黒人タレントをすくい上げるようにした。50年代初頭までには、黒人レコードの売り上げは大手レコード会社の利益を削るようになっていた。
1954年から1958年にかけて、リズム&ブルースやロックンロールのレコードを販売する独立系レコード・レーベルが音楽チャートを席巻し、大手レコード・レーベルの市場シェアは激減した。1954年から1958年まで、ビルボード誌のチャートに入ったヒット・レコードの75%は、アメリカの大手レコード・レーベルによるものだった。しかし、1959年までには、ヒット・レコードのうち大手レコード・レーベルのものはわずか36パーセントに過ぎなかった。1955年から1956年のわずか1年間で、独立系レコード・レーベルはリズム&ブルースとロックンロールのレコードの売上を44%も伸ばした。これらの独立系レコード会社が大手レコード会社よりも成功したのは、リズム&ブルースとロックンロールの市場に早くから参入したことが関係している。