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マーキュリー・レコードはロックンロール・ビジネスに参入したばかりで、コンサルタントとしてディック・クラークを雇った。
マーキュリーは「リトル・ダーリン」をクラークに渡し、賛同を求めた。クラークはウィリアムスの提案を却下し、マーキュリーが黒人音楽をカバーするために雇ったダイアモンズにレコードを渡した。この先はご存じの通り。
ダイアモンズの「リトル・ダーリン」は1957年のビルボード・チャートで2位を記録した。
ダイアモンズは1958年に「ザ・ストロールThe Stroll」が再びヒットし、ビルボード4位となった。
「リトル・ダーリン」のオリジナル黒人レコードはビルボード・チャートにランクインしなかった。これは、大手レコード会社が50年代によく行っていたやり方で、利益を得るためにカバー・レコードで黒人音楽を乗っ取る必要があったことを示す好例である。1957年以降、大手レコード・レーベルによるカバー・レコードの慣行は、ダイアモンズのヒット曲「リトル・ダーリン」で終わりを迎えるのだが、それは、白人のティーンエイジャーがオリジナルのリズム&ブルースのレコードを求め始めるようになったからだ。
1955年までに、大手レコード会社は人種差別的な方針を緩和し、マーキュリー・レコードのようなレーベルはデル・バイキングスThe Del Vikings、プラターズThe Platters、ペンギンズThe Penguinsなどのグループと契約を結び、リズム&ブルースを録音するようになった。
しかし、損害は1960年までにすでに発生していた。1960年、アメリカには3,000のレコード・レーベルがあったが、大手レコード・レーベルに分類されるのは500だけで、残りの2,500はロックンロール専門の独立系レコード・レーベルだった。独立系レコード・レーベルは、1948年以来アトランティック・レコードAtlantic Records、チェス・レコードChess Records、キング・レコードKing Records、スペシャリティ・レコードSpecialty Recordsが誕生し、リズム&ブルース市場を狙い、大いに成長を遂げた。1955年までに、独立系レコード・レーベルはロックンロール・レコードを売り上げて巨額の利益を上げるようになっていた。レコード・レーベルはアメリカ中のディージェイたちに、自分たちのレコードをかけるよう金と高価な贈り物で買収していた。1959年、フロリダのマイアミ・ビーチで、いくつかのレコード会社が主催するロックンロール大会が開催された。これらのレコード会社は、全米のロックンロール・ディージェイに往復切符を提供するだけでなく、ディージェイが手に入れられる限りの食べ物、酒、高級娼婦を浴びせた。
レコード会社はニューヨーク・マフィアとも関係があった。小悪党ギャングのモリス・レビーMorris Levyは、ニューヨークでルーレット・レコードRoulette Recordsを経営していた。
ルーレットはニューヨーク・マフィアの隠れ蓑だった。アラン・フリードはどういうわけか、レビーとルーレット・レコードに関わることになる(彼の破滅のもとになった)。フランキー・ライモンとティーンエイジャーズFrankie Lymon and The Teenagersはルーレット・レコードでレコーディングをした。
1960年、連邦捜査局がフリードとレコードのペイオーラ慣行を摘発した。