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ドゥーワップ・ミュージックは、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスの大都市ゲットーで生まれ(ニューオーリンズで生まれたリズム&ブルースとは異なる)、リズム&ブルース、ゴスペル、人気のある黒人ボーカル・グループの音楽をブレンドした、第二次世界大戦後の音楽である。リズム&ブルースとは異なり、ドゥーワップ・ミュージックは、パレオ期(1952年~1954年)、クラシック期(1955年~1959年)、ネオ期(1960年~1963年)と、いくつかのスタイルの変遷を経験した。これらの若い黒人の成人パフォーマーたちは、音楽業界でのキャリアを追求したいという強い願望を持っていた。彼らの音楽の教育や経験は、都会の教会で過ごした時間から生まれた。ミルス・ブラザースThe Mills Brothersやインク・スポッツThe Ink Spotsといった過去の黒人ボーカル・グループの成功を尊敬していた。
リズム&ブルースとは異なり、ドゥーワップ・グループはアップテンポであり、しっかりとして甘いハーモニーの非常にスムーズなサウンドだった。ドゥーワップ・ミュージックは、ボーカル・グループ・ハーモニー音楽のサブカテゴリーだが、それに含まれるのは、伝統的なグループ・ハーモニーだけでなく、幅広いボーカル・パート(時には様々な声)、無意味音節(主にバスとハーモニーのパートが使用)、シンプルなビート、軽快な楽器編成、シンプルな音楽と歌詞だ。
ドゥーワップのグループ・ハーモニーは、かつてのボーカル・グループ・ハーモニーとは異なっていて、リード・ボーカリストのバックでドゥーワップ・ミュージックを歌っていた。リード・シンガーは通常テナーで、ドゥーワップ・ミュージックではハイ・テナーが登場することもあった。フランキー・ライモン&ティーンエイジャーズFrankie Lymon and The Teenagersなどが良い例だろう。
その後、ネオ・ドゥーワップやドゥーワップ・リバイバルの時代(1960~1963年)には、リード・シンガーはファルセット・リード(トーケンズThe Tokens)に取って代わられた。この時期には、より多くのインストゥルメンテーションとナンセンス・シラブル(無意味音節)が使われるようになる。
このリバイバル・ドゥーワップ期の最も重要な変化は、無意味な歌詞がより複雑なスタイルになったことだ。1961年のマーセルズThe Marcelsの「ブルー・ムーンBlue Moon」、1961年のエドセルズThe Edselsの「ラマ・ラマ・ディング・ドングRama Lama Ding Dong」などが良い例だ。
ドゥーワップ・グループは4人から5人のメンバーで構成されていた。東海岸のドゥーワップ・グループ(ファイブ・サティンズThe Five Satins)は通常5人で構成され、西海岸のドゥーワップ・グループ(ペンギンズThe Penguins)は4人で構成されていた。
片方の海岸が他と違うことをしたかったということ以外、違いについてのうまい理由は特に説明されていない。リズム&ブルースの誕生と同様、ドゥーワップ・グループは、プロとして歌いたいという意欲を持った若い大人の黒人で主に構成されていた。主に黒人の大人たちに向け、また黒人の大人市場の需要に応えて音楽を書き、創作した。
当初、ドゥーワップの歌詞は、同系列のリズム&ブルースのように生々しく、性的な含みのあるものだった。人気ドゥーワップ・グループのスワローズThe Swallowsが1951年にレコーディングした「イット・エイント・ザ・ミート・イッツ・ザ・モーションIt Ain’t the Meat It’s the Motion」は、ひとりの男が女の子に惹かれる気持ちを歌っていた。
西海岸で40年代後半に大人気だったドゥーワップ・グループがロビンズThe Robinsだ。
ロビンズは、売れっ子のソングライター、リーバーとストーラーLeiber and Stollerが黒人文化での生活について書いた曲をレコーディングしていた(リーバーとストーラーを参照)。