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1958年、アポロ・シアターthe Apollo Theaterでのリズム&ブルース・ショーの最中、ドリフターズThe Drifters(クライド・マクファターClyde McPhatterはすでにソロになってアトランティック・レコードに行った)は、その夜のステージで酔っぱらっていた。
このグループはショーが終わる前にクビになった。その夜ステージにいた別のグループ、ファイブ・クラウンズThe Five Crownsは、(ショーが終わる前に)新しいドリフターズになる契約を持ちかけられた。
ファイブ・クラウンズのリード・シンガーはベン・E・キングBen E. Kingだった。
彼と新しいドリフターズは1959年に「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビーThere Goes My Baby」という大ヒット曲をレコーディングし、リーバーとストーラーが楽曲とアレンジ(オーケストラ)を任されることとなる。
ドリフターズは、「オリジナル・ドリフターズ」(1953~58年)と「ニュー・ドリフターズ」(1959~74年)として、ドゥーワップの歴史に残ることになる。
1958年、ジミー・ボーモント&スカイライナーズJimmy Beaumont and The Skylinersの「シンス・アイ・ドント・ハブ・ユーSince I Don’t Have You」は、白人ドゥーワップ・グループによるアレンジにフル・オーケストラを加えた初のドゥーワップ・レコードと考えられた。
その1年後、新しいドリフターズ(黒人)がフル・オーケストラで「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」を録音する。彼らは、ブリル・ビルthe Brill Buildingの「ティン・パン・アレイTin Pan Alley」ソングライターたちによって書かれた曲をさらにレコーディングした。
「ディス・マジック・モーメントThis Magic Moment」、「トゥルー・ラブTrue Love, True Love」、「ロンリー・ウィンズLonely Winds」、
「ノーバディ・バット・ミーNobody But Me」、「ラストダンスは私にSave the Last Dance For Me」、「アイ・カウント・ザ・ティアーズI Count the Tears」、
「ルーム・フル・オブ・ティアーズRoom Full Of Tears」、「スイーツ・フォー・マイ・スイートSweets For My Sweet」、「サムバディ・ニュー・ダンシング・ウィズ・ユーSomebody New Dancing With You」、「シー・ネバー・トークト・トゥ・ミーザット・ウェイShe Never Talked To Me That Way」は、ブリル・ビルディング大成功したソングライターのドク・ポーマスDoc Pomusが書いた。