サム・フィリップスSam Phillipsにとって1952年はひどい年で、数曲リリースした後サン・レコードを一時中止し、以前かかったことのあるちょっとした神経衰弱のために仕事から遠ざかった。
しかし1953年1月、兄のジャドJudをビジネス・マネージャーとして参加させ、運転資金を出資させたのだが、それはジャドがジム・ブレットJim Bulleitの資金をあっという間に使い果たしてしまったからだ。
フィリップスは危機感を持っていたのだが、それは同じ1月にビハリ兄弟the Biharisの長男レスターLesterがメンフィスに来て、モダンModernのもう一つのレーベルのメテオール・レコードMeteor recordsを設立し、ドン・ロビーDon Robeyが、あるアーティストのヒットの力によってデューク・レーベルDuke labelを既に手に入れていたからだ。
これは手ごわい競争相手だが、サムにはメンフィスで数年間の現場経験があり、相手は二人ともない。(レスター・ビハリLester Bihariがメンフィスに送られたことを知って、サムはほっとしたかもしれない。その理由は、単にメンフィスに足がかりを作るだけでなく、モダン・レコードModern recordsのオフィスから追い出すためだからだ。モダン・レコードでは商品倉庫を管理していて、ビジネスのことはそっちのけでお客と延々おしゃべりをしていたのだ。)
サムは、1952年後半にレコーディングしてあったジョー・ヒル・ルイスJoe Hill Lewisなど3枚のレコードをすぐにリリースし、地元だけだったが売れた。以前の問題を解決するために、ジム・ブレットへ流通を任せ、心配事が一つ減った。
その後3月になって、サムはアンサー・レコードの流行に乗ることを決めたのだが、「ハウンド・ドッグHound Dog」は格好のターゲットだった。シンガーに関しては、地元で長い間ショーマンをしていた有名なルーファス・トーマス・ジュニアRufus Thomas Jr.を選んだが、トーマスはWDIA局で番組を持ち、パレス・シアターthe Palace Theaterでタレント・ショーの司会を務めていた。
このショーでは、BBキング B.B.Kingなど多くの者がチャンスをつかんだ。「ベア・キャットBear Cat」は名曲ではないが十分に楽しく、オリジナルにあまりにそっくりで、つぶされることとなったが、停止命令が下される前にR&Bのトップテンに入っていた。
6月、ルーファスは動物ものにこだわって、「タイガー・マンTiger Man」をレコーディングし、素晴らしい出来だったがそれほどヒットしなかった。
これはジョー・ヒル・ルイスJoe Hill Lewisがルーファスのために特別に書いたものだったので誰も訴訟しなかった。