1958年、キャピトル・レコードはキングストン・トリオに賭けてみることにした。


キングストンの名前はジャマイカの都市からとったものだが、彼らはカリプソよりハワイアンに関心があった。グループのうち二人は、ハワイで育ちハワイアン音楽を大学で一緒に演奏し、3人目のメンバーが参加するとすぐに風刺にとんだ音楽、軽快なポップ・ソングを始め、ベイ・エリアの宣伝マンで彼らの新しいマネージャーになったフランク・ワーバーFrank Werberと協力して、サンフランシスコのクラブにふさわしい演目を開発した。

彼らのチャンスは1957年メモリアルデーの終末に巡ってきた。フィリス・ディラーPhyllis Dillerがパープル・オニオンthe Purple Onionでの1週間契約をキャンセルしたので、ワーバーはクラブを説得してキングストン・トリオを出演させた。

彼らはうまく行き、すぐにたくさんの出演予約が舞い込んだ。ワーバーは将来を見据え、自分たちと契約するレコード・レーベルはLPしかリリースしないことを主張した。最初のアルバムはうまく行ったが、すごいというほどではなかった。しかしソルト・レーク・シティの放送局のディスク・ジョッキーが、「トム・ドゥーリ―Tom Dooley」を放送すると電話がじゃんじゃん鳴った。

![The Kingston Trio – Tom Dooley – Vinyl (Scranton Pressing, 7", 45 RPM, Single), 1958 [r2479778] | Discogs](https://i.discogs.com/8DSlHPRX_c5aPUw_UgJhe6AU2VgsOaEwl7aWX30ACTI/rs:fit/g:sm/q:90/h:600/w:600/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTI0Nzk3/NzgtMTI4NjMyNDQ1/MS5qcGVn.jpeg)
結局キャピトルはそれをシングルとしてリリースせざるを得なくなり、1958年の夏、大ヒットして第1位になった。アルバムは4年間チャートに居続けた。皮肉にも「トム・ドゥーリ―Tom Dooley」は正統なアメリカのフォーク・ソングで、1950年代、民族学者のフランク・ワーナーFrank Warnerが、ケンタッキー州のバンジョーの造り手で歌手のフランク・プロフィットFrank Proffittから収集し、フォークウェイズ・レコードからリリースしたが、キングストン・トリオはこの種の素材をできるだけ敬遠していた。
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しかし、ピート・シーガーの異母兄弟マイクMikeは敬遠しなかった。

シーガーはフォーク音楽にあふれた家で育ったが、それは音楽民俗学者チャールズCharles(そして、子供たちのベイビー・シッターで左利きのギタリストであるエリザベス・リバ・コットンElizabeth Libba Cotton)のおかげであり、マイクは25歳なるまでに、古い音楽の歩く百科事典になっただけでなく、多数の楽器を様々なスタイルで演奏できた。
マイクはニューヨークで、似たような考え方を持つ、写真家のジョン・コーヘンJohn Cohenと数学者のトム・ペイリーTom Paleyという二人の友人と一緒に、ニュー・ロスト・シティ・ランブラーNew Lost City Ramblerとして、グリニッチ・ビレッジのクラブで演奏し始めた。
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彼らも1958年にグループと同名のアルバムを、やはりフォークウェイズで作った。
