アルドン・ミュージックAldon Musicの初期取引先の一人がフィル・スペクターで、ゴフィン・キング


の曲「エブリ・ブレス・アイ・テイクEvery Breath I Take」をジーン・ピットニーGene Pitney

![Gene Pitney – Every Breath I Take – Vinyl (7", 45 RPM, Single), 1961 [r11564498] | Discogs](https://i.discogs.com/ozWvsBBhjWhgBRaPJcHZHnf0nheqJ6MLsPdbHskuKhw/rs:fit/g:sm/q:90/h:582/w:600/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTExNTY0/NDk4LTE1MTg1NzI2/NzQtMTk2My5qcGVn.jpeg)
の2度目のプロデュースに当たって選び、たいしたヒットにはならなかったものの、結局、カリフォルニアにおける24歳の若き天才で、リバティ・レコードLiberty RecordsのA&R責任者に昇進したスナッフ・ギャレットSnuff Garrettが、スペクターをイースト・コーストのA&R責任者に登用して、レコード会社の職に付けた。

しかし、スペクターはレスター・シルLester Sillと一緒に自分のレーベルであるフィレスPhillesを立ち上げるのに忙しく、リバティの仕事を引き受けてから短期間になんと3枚のシングルを出したが、どれも売れなかった。


スペクターのオフィスは、頻繁に使っていたエア・ホッケー台など設備が整っていて、たいした仕事もしていないことを考えれば、非常に多額の給料をもらっていた。1962年3月に雇われ7月になったばかりだというのに、その時点でスペインにおける長期有給休暇を取る話をした。それどころか、3万ドルを前払いで受け取ってリバティを去り、それを使ってフィレスに本腰を入れた。
物事は始まった。2月のクリスタルズThe Crystalsの「ゼアリズ・ノー・アザー・ライク・マイ・ベイビーThere’s No Other Like My Baby」の次作として、スペクターはプロテスト・ソングと言ってもいいような、バリー・マンBarry Mannとシンシア・ワイルCynthia Weilのナンバーを選んだ。
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「アップタウンUptown」は、歌い手のボーイフレンドが毎日起きてはダウンタウンに向かい、そこでは「ちっぽけな男」であり「100万人の中の一人」に過ぎないが、終業後はアップタウンに戻って特別な存在になると、歌い手が彼に知らせる。

![The Crystals – Uptown – Vinyl (7", 45 RPM + 3 more), 1962 [r3757304] | Discogs](https://i.discogs.com/OX-fS2-VuyHENAi2J6ci_lXACDTud8qdtdwTDKHBitA/rs:fit/g:sm/q:90/h:600/w:600/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTM3NTcz/MDQtMTM0MzE1NDc5/NS0yNTYzLmpwZWc.jpeg)
この歌には隠された意味がたくさんあり、マイノリティは様々な都市の様々な地域に住んでいるが、ニューヨークで『アップタウン』は明らかにハーレムで、歌い手は明らかに黒人だ。この曲はポップ・チャートで13位にしか上らなかったが、それでもレコードの聞こえ方、どんな内容が子供たちへ響くかについてメッセージを送ったのだ。だが当時は、ほぼ失敗作だった。スペクターが何を考えていたかは分からないが、「アップタウン」の次作はゴフィン・キングGoffin-Kingの曲「ヒー・ヒット・ミーHe Hit Me(It Felt Like a Kiss))だった。

B面のインストゥルメンタルに対するこだわりを考えれば、それはフィレス・レコードにとって、のるかそるかの賭けだったが、彼がちょうどリバティ・レーベルを辞めたタイミングでの大きな失敗だった。チャート入りせず、売れず、放送もされなかった。彼は22歳でダメになってしまったのか。
