このような動きはニューヨークに限ったものではなかった。ボストンにあるいくつかの大学や、バンガード・レコードVanguard recordsで2枚目のアルバムをリリースした若きジョーン・バエズJoan Baezのおかげでフォークが盛んだった。


起業家のアルバート・グロスマンAlbert Grossmanは、シカゴでライス・ホテルthe Rice Hotelの地下にゲート・オブ・ホーンThe Gate of Hornというクラブをオープンし、地元やツアーのフォークシンガーを受け入れていた。

バークレーでは、戦争が勃発した時にポーランドの小王族になろうとしていた青年、クリス・ストラックウィッツChris Strachwitzが、自分で物事を進めるところだった。

彼の家族はナチスの来る直前にアメリカに着き、シカゴで親戚のところに滞在し、当然ながらそこでラジオからブルースを聞いた。ジョン・リー・フーカーJohn Lee Hookerやライトニン・ホプキンスLightnin’ Hopkinsなど、ギターで伴奏するだけのベーシックな演奏者(それでもヒット曲を持っていてラジオでかかる)の方が好きで、大学に行くためにカリフォルニアに渡った後、テープ・レコーダーだけを抱えて、ヒューストンにいるライトニン・ホプキンスに会いに行くことにした。
![Hopkins, Sam [Lightnin']](https://www.tshaonline.org/images/handbook/entries/HH/hopkins_lightnin.jpeg)
そうしても最初はたいしたことが起きなかったが、親しくなったテキサスの民俗学者マック・マコーマックMac McCormackが、ネバソタにいる小作人、マンス・リップスコームMance Lipscombの話をした。


その人は、名人芸のギター・スタイルで、ブルース以前の伝統的歌手までさかのぼる広いレパートリーを持っていて、ストラックウィッツは会いに行き、親しくなって録音した。最終的に出来上がったアルバムを自分でアーフーリーArhoolieというレーベルから出したが、このレーベル名は黒人作業員が作業の助けになるために出す叫び声にちなんだもので、4月にアーフーリー1001 Arhoolie1001、マンス・リップスコームMance Lipscombはリリースされた。

これを聞いた人たちの間で大評判となったが、リップスコームが作ったのと同じような音楽をレコード会社は作っているのに、リップスコームの音楽は無視された。それは、ロスコー・ホルコームRoscoe Holcombの時と同じだった。
そんなレコードがどれ程発売されたのだろう?それを言うなら、もし、クレアランス・アシュレーClarence Ashleyが生きていて良い音楽を作っていたら、フォークウェイズFolkwaysのアンソロジーAnthologyやカントリー・ブルースCountry Bluesの演奏者が、どれほど多く見いだされたであろうか?
