大学のキャンパスでは、学生が子供時代の音楽であるロックンロールを見捨てて、他のものに乗り換えた。洗練された人はジャズに向かい、アーマド・ジャマルAhmad Jamalやモー・コフマンMoe Koffmanの覚えやすいけれど中身のない「スィンギング・シェファード・ブルースSwinging Shepherd Blues」は別として、ジャズはポップ・チャートに載ることはほとんどなかったが、アルバムはかなりの枚数が売れ、特にコンテンポラリーのマイルス・デイビスMiles Davis、アーマド・ジャマルAhmad Jamal、チェット・ベーカーChet Bakerが売れた。


![Johnny Pate Quintet – Swinging Shepherd Blues – Vinyl (10", 78 RPM), 1957 [r11190640] | Discogs](https://i.discogs.com/9I16k0s_hwhZtk58Q-Qt8MqQJuAtN8WqlwSralTYKF4/rs:fit/g:sm/q:40/h:300/w:300/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTExMTkw/NjQwLTE1MTE1NTY1/ODYtMTU3NC5qcGVn.jpeg)
知性的な人はフォーク・ミュージックに向かった。こういったことが起きたのは初めてではなく、1930年代にはフォーク・リバイバルがあった。当時は大恐慌時のアメリカ人左派にふさわしい音楽で、最も有名なのはニューヨークのコミューン的なところで暮らしていたアルマナック・シンガースThe Almanac Singersで、そこにはハーバード大学卒業生で民俗学の父であるピート・シーガーPete Seeger、そして将来の俳優リー・ヘイズLee Haysがいた。



その時代の生き残りの何人か(特にシーガーとヘイズ)が1948年にウィーバーズThe Weaversを結成し、レッド・ベリーLead Bellyの「グッドナイト・アイリーンGoodnight Irene」とイスラエルのフォーク・ソング「ツェナ・ツェナTzene Tzena」をヒットさせた。

![Red Foley And Ernest Tubb With The Sunshine Trio / Ernest Tubb And Red Foley – Goodnight Irene / Hillbilly Fever #2 – Shellac (10", 78 RPM), 1950 [r4125191] | Discogs](https://i.discogs.com/d-b8fxpoZYhQo3ZtyovG0ZPJ8n_N-rWsdN_IMRCsSW0/rs:fit/g:sm/q:90/h:600/w:600/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTQxMjUx/OTEtMTM1NjEyMDc2/MC02OTk2LmpwZWc.jpeg)



ツェナ・ツェナの中でピート・シーガーの素朴なバンジョーと、デッカの社内アレンジャーであるゴードン・ジェンキンスGordon Jenkinsの密度の濃い弦楽器とはマッチしなかった(ジェンキンスは後にバディ・ホリーBuddy Hollyと一緒に働くので、覚えておいて)。


グループのキャリアはアメリカ政府のマッカーシーMcCarthy公聴会によって、絶頂時に台無しにされてしまった。

(実は、1930年代、シーガーなど数名のメンバーは共産党と提携したグループに参加し、あるいは支持したが、それは違法ではなかった。)しかし、シーガーは学校、キャンプ、大学のキャンパスで演奏を続け、影響力のあるパーソナリティと、平和や核軍縮を無党派として支持したことから、ファンの数が増加し、シーガーのバンジョー教本とフォークウェイズ・レコードFolkways Recordsのレコードが売れた。
