それでも、未来を止めることはできず、未来はいろいろな経路でやって来た。それは、8月12日、スタックス・レコードで運転手をしていた背の高いひょろっとした子、ジョニー・ジェンキンスJohnny Jenkinsが運転する車でやってきた。
彼はワイルドなライブをするギタリストで、スタックスからレコードを出したくて、アトランティックのために地域の広告宣伝をしているアトランタ出身のジョー・ガルキンJoe Galkinの推薦を受けていた。ジェンキンスはThe M.G.と一緒にスタディオに入ってしばらく遊んでいたが納得がいかず、明らかにジェンキンスのライブはスタディオで再現することができなかったのだが、良い曲を持っていなかったようだ。

その日、時が過ぎていく中で、アル・ジャクソン・ジュニアAl Jackson Jr.はスティーブ・クロッパーSteve Cropperのところにきて、運転手にレコーディングさせれば、うるさく言うのをやめられるかと聞いた。

運転手はうるさがられていたのだ。セッションが失敗に終わったと分かった時、ゴルキンGalkinは、機器制御盤の後ろに座っているジム・ストゥワートJim Stewartに、この大柄な子は、ジェンキンスのショーで時々代役を務めているのだが、良いのでチャンスを与えてみるべきだと言った。

ゴルキンは、売り上げの印税を半分にする代わりに出版権を半分にするという、相手が飲み易い申し出をし、ジムが応諾した。クロッパーは自分の夜のライブに行く前、その子が準備をしている間に、スタインバーグSteinbergを捕まえるために外に出て連れ戻した後、ブッカーTは少しコードを演奏しその子は歌い始めた。「あれほど感情を表したい人間に会ったことは無かった」とブッカーは後に語った。エステルEstelleは「彼は全く違うサウンドを出していたが、それをやめてしまうとは夢にも思わなかった」。
その曲は、この子が書いた「ディーズ・アームズ・オブ・マインThese Arms of Mine」だった。この子の名前はオーティス・レディングOtis Redding。

4日後ジムはこの子と契約した。10月に発売しR&Bチャートで20位までジワジワ上がった。
確かに『良い音楽』は存在していたが、フランク・シナトラFrank Sinatraはあまり多くのシングル・ヒットをチャート・インさせなかったし、トニー・ベネットTony Bennettでさえ、グラミー賞のレコード・オブ・ザ・イヤーを獲得した「想い出のサンフランシスコI Left My Heart in San Francisco」が、長期間トップ20にいることはなかった。



それ以外で有望な人物のボビー・ダーリンBobby Darinは、4年間いたアトランティック・レコードAtlantic recordsを離れ、キャピトル・レコードCapitol recordsと契約した。


