1959年、ウェインGeorge Weinは本格的フォーク・フェスティバルを開催すればうまく行くのではないかと考え、シカゴの友人でナイトクラブ興行主仲間のアルバート・グロスマンに協力してもらい、週末の出演者を決めた。


彼らは毎晩15組の出演者を選び、ヘッドライナーはピート・シーガーPete Seegerが飾った。

第1夜は、大部分が商業的なポップ・シンガーではないにせよ、商業的なフォークシンガーで、その中にはオデッタOdetta、ジョン・ジャコブ・ナイルズJohn Jacob Niles、クランシー・ブラザースThe Clancy Brothersがいた。



第2夜は再び15組のアーティストで、ヘッドライナーはキングストン・トリオThe Kingston Trio、他にアール・スクラッグズEarl Scruggs、スタンレイ・ブラザースThe Stanley Brothers、ジーン・リッチーJean Ritchie、ボブ・ギブソンBob Gibson、サウス・カロライナ出身でハーレムに住むラグタイムのギタリスト牧師、レバーレンド・ゲリー・デイビスthe Reverend Gary Davisがいて大いに魅了した。






しかし、もしその日曜が何かのために思い出されるとすれば、それはギブソンが舞台に連れてきた18歳の美少女のせいで、その子はギブソンとデュエットしてボストン・フォーク界で話題となった。
二人が「バージン・マリー・ハッド・ワン・チャイルドVirgin Mary Had One Child」を歌い終えるまでには、ジョーン・バエズJoan Baezという名前は数千人以上に知れ渡った。
当時ボストンで教師をしていた原子力科学者の娘で、テッド・アレビゾスTed Alevizosというボストンのフォークシンガーのコンピレーション・アルバム「フォークシンガーズ・ラウンド・ハーバード・スクエアFolksingers ‘Round Harvard Square」にすでに登場していた。

このアルバムはビル・ウッドBill Woodという人もフィーチャーしていたが入手不可能で、フォーク・ミュージック・メディアにとって更に重要なことはニューヨークで入手不可能だったということだ。

ニューポート公演の直後、バエズはバンガード・レコードVanguard recordsと契約したが、このレーベルはフォーク・ミュージックを少し(そしてクラシック音楽をたくさん)リリースし、最初のニューポート・フォーク・フェスティバルNewport Folk Festivalも録音していた。

