スペシャルティ・レコードSpecialty recordsは素晴らしいことを成し遂げることになる二人の地元アーティストを見い出した。パーシー・メイフィールドPercy Mayfieldは「ブルースの詩人The Poet of the Blues」ともてはやされたシンガー・ソングライターだったが、その作品ははるかにポップ色が強かった。


単なる誇大宣伝というわけでもなく、「プリーズ・センド・ミー・サムワン・トゥ・ラブPlease Send Me Someone to Love」はハーモニーとして洗練され、かつ、歌詞も完成されたものだった。

![Percy Mayfield And Orchestra – Please Send Me Someone To Love – Shellac (10", 78 RPM), 1950 [r6948705] | Discogs](https://i.discogs.com/K1xFXPAUS21aD2YqrggfrRnrKMA--xu_iAwzaq83S1M/rs:fit/g:sm/q:90/h:600/w:600/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTY5NDg3/MDUtMTQzMDE3NTEx/NS00Njc1LmpwZWc.jpeg)
彼はハンサムでもあったので熱烈なファンもいたが、1952年の自動車事故で顔を損傷して公の場に出ることが怖くなり、レコードや作曲は続けたが演奏はしなくなってしまった。ジェシー・ベルビンJesse Belvinは、もしソロ活動の芸に専念していれば、このようなアーティスト達の中でもっとも有名になっていたかもしれないが、マービン・フィリップスMarvin Phillipsと組んで、ジェシー&マービンJesse and Marvin(マービンは、長年にわたって『ジェシーJesse』と名乗るベルビン以外のボーカリストと一緒に、マービン&ジェシーMarvin and Jesseとしてヒット曲を出し続けた)としてレコーディングし、ロスアンゼルスの先駆者的ボーカル・グループ、ハリウッド・フレームズThe Hollywood Flamesにも所属していた。



もう一人のエンターテインメント起業家はジョニー・オーティスJohnny Otisだ。
ロサンゼルスのワッツにあるナイトクラブのバーレルハウスthe Barrelhouseで、ドラムやビブラフォンを演奏して自分のバンドをフィーチャーしただけでなく、サボイ・レコードSavoy recordsやモダン・レコードModern recordsなどのレーベルのためのタレント・スカウトとしても働いていた。

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ジョニーの最初の掘り出し物はリトル・エスターLittle Esther(Phillips)であり、見つけて売り出した時には15歳、バックはロビンズThe Robins(もちろんジョニー・オーティス・クインテットThe Johnny Otis Quintetteであり、その名前でレコードはリリースされた)で、1950年に「ダブル・クロッシング・ブルースDouble Crossing Blues」はチャート1位になった。


