今になって思えば、1952-1953年の期間は、リズム&ブルースのスタイルの重要な転換点だった。古いタイプのジャンプ・ブルースはまだ流行っていて、ビッグ・ジョー・ターナーBig Joe Turnerはアトランティック・レコードAtlantic recordsで名作を数曲作り、


ロイ・ミルトンRoy Milton、


チャールズ・ブラウンCharles Brown、

![Charles Brown – Still Water / My Last Affair – Shellac (10", 78 RPM), 1952 [r9900539] | Discogs](https://i.discogs.com/1YSbnFk4YLb_0KAOjsq0MZWhjyqzRpZh9k5Oaas_8Ig/rs:fit/g:sm/q:40/h:300/w:300/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTk5MDA1/MzktMTUyMDY2NTA5/MC01MDY4LmpwZWc.jpeg)
エイモス・ミルバーンAmos Milburnはヒットを出していたが、他のソロ・アーティストはブルースとポップの間のどこかに、新たな領域を探索していた。

最も輝かしいスターの一人、ジョニー・エースJohnny Aceは、さらにもう一人のメンフィスのシンガーであり、非公式な若者グループであるビール・ストリーターズThe Beale Streetersの一人で、一緒にたむろしていて地元で人気があった。


![EARL FOREST featuring THE BEALE STREETERS with BOBBY BLAND and JOHNNY ACE (廃盤LP) [USED] - LOS APSON? Online Shop](https://img12.shop-pro.jp/PA01063/432/product/46326869.jpg?20120722174032)
エースの「マイ・ソングMy Song」はナンバー・ワン・レコードになり、10代の女の子に大人気だった。

この曲は、メンフィスのタレントを呼び物にする新レーベルのデューク・レコードDuke recordsからリリースされ、ヒューストンのドン・ロビーDon Robeyは、自分のブロンズ・ピーコック・クラブBronze Peacock clubにちなんだ名前のピーコック・レコードPeacock recordsをすでに所有していたが、メンフィスに行ってデューク・レコードとジョニー・エースをすぐに買収した。
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テキサス出身のフロイド・ディクソンFloyd Dixonは幅広いスタイルの曲を書いて歌い、「コール・オペレーター210 Call Operator210」は1年中ジュークボックスでかかった。

