ボーカル・グループは東海岸で大流行していたので、ドミノーズThe Dominoesはハーレムのアポロ・シアターApollo TheaterやバードランドBirdlandでよく演奏した。



アトランティックAtlanticのアーメット・アーティガンAhmet Ertegunは1953年夏のある晩、バードランドで見ているとマクファクターMcPhatterのいないのに気が付いた。

ステージの合間に楽屋に行って、何気なくビリー・ウォードBilly Wardにわけを尋ねた。
![Billy Ward – Billy Ward Canta Stardust – Vinyl (7", 45 RPM, EP), 1958 [r4170871] | Discogs](https://i.discogs.com/8veQkEroJfJAy_t2tUmK9UsBH8l04TEkSrouwZNk7WQ/rs:fit/g:sm/q:90/h:594/w:600/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTQxNzA4/NzEtMTU3MDYyMDIy/NS0yMTc2LmpwZWc.jpeg)
ウォードは仕えにくい上司で、雇った者への要求は多く、すぐにかっとなることで知られていた。アーティガンへの返事は簡潔で、「バカはくびにした」だった。アーティガンはすぐにクラブの外の舗道に出てタクシーを止め、マクファターのハーレムのアパートに連れて行くよう運転手に言い、そしてマクファクターをディナーに誘って、アトランティックAtlanticと契約すべきだと説得した。マクファターには、トラシャー・ワンダースThe Trasher Wondersというゴスペル・グル-プに友人が数人いて、マクファターと一緒に宗教色のない歌を歌いたがっていたので、アトランティックでオーディションをした後に契約し、名前をドリフターズThe Driftersとした。アトランティックでの最初の曲は「マネー・ハネーMoney Honey」で、年間でもっともたくさん売れたR&Bの曲になった。


ビリー・ウォードBilly Wardはあまり怒っておらず(ウォードの言い方では、アトランティックが問題を引き取ってくれただけのことだ)、ジャッキー・ウィルソンJackie Wilsonという別のリード・シンガーを見つけたが、ウィルソンは元ボクサーであり、デトロイトのフレーム・ショー・バーthe Flame Show Barで、ゴスペルとポップの曲を歌っていた。
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