キングは既にナッシュビルのバレット・レコードBullet Recordsからレコードを出していたが大して売れなかった。

![B.B. King – Miss Martha King / When Your Baby Packs Up And Goes – Shellac (10", 78 RPM), 1949 [r7031392] | Discogs](https://i.discogs.com/MRAcE7cpcyCtlwCmFoKSk0pZJaXiXqqFvmVRIEvrg5I/rs:fit/g:sm/q:90/h:597/w:597/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTcwMzEz/OTItMTQzMjA4Njk1/NS03MTgwLmpwZWc.jpeg)
しかし、ビハリ兄弟は、彼が純粋な音色を出し、とめどもなく独創的なアイデアでブルース・ギターを弾く偉大なシンガーだと考え、すぐにスタディオ入りさせることにした。

幸いにも南部の大都市と異なり、真新しく技術面にも最新で、素晴らしいサウンドのスタディオがメンフィスにはあった。必要なことはただ、バンドを集め、キングをサン・スタディオSun Studioのあるユニオン・アベニューに連れて行き数曲録音することだけだ。


サム・フィリップスSam Philippsは準備万端だ。

サムは、サン・スタディオのthe Memphis Recording Serviceを軌道に乗せるために様々なことを試みたが、今こうして全国トップのリズム&ブルースのレーベルが、この都市の有名人の一人にレコーディングを依頼している。


しかも、サムが提案するほかの一切の案件について第一専買権を申し込み、それにはかつてサムを後押ししてくれたジョー・ヒル・ルイスJoe Hill Louis、ハーモニカ演奏者のビッグ・ウォルター・ホートンBig Walter Hortonがいて、他にも結局モダン・レコードModern recordsに入った人がいた。



しかし、BBキングは何ももたらさなかった。
一方、フィリップスは、ミシシッピ州クラークスデール出身の10代ピアニスト、アイク・ターナーIke Turnerをスカウトできた。


ターナーの母親はミュージシャンのためにホテル兼下宿屋を経営していて、人種差別を受けている南部でツアーする黒人演奏者の泊まれる隠れ場所の一つであり、キングは何が良いか、人々が何を望んでいるのかを学んだ。キングも自分のバンド、キングス・オブ・リズムThe Kings of Rhythmを持ち、セッションでほかの人のバックとしてそのバンドを喜んで使ったが、それだけでなく自分もキャリアを積みたいと思っていた。

BBキングの勧めで、1951年にターナーはバンドをメンフィスに連れて行き、すぐにサム・フィリップスSam Phillipsとセッションをすることになった。
録音した曲の1曲は、サクスフォニストのジャッキー・ブレンストンJackie Brenstonをフィーチャーしたもので、バンドがライブ・ショーで演奏した「ロケット・エイティエイトRocket 88」だった。
