もし戦後の黒人ポピュラー音楽の特徴となることが一つあるとすれば、この音楽を作るグループの大きさだ。ビッグ・バンド時代は戦時のガソリンとゴムの割り当て制によって終わってしまったが、まともなアレンジャーなら、サクソフォン1~2本、トランペット、ソフトに弾くエレキ・ギター、ピアノ、ベース、ドラムスで大音響を作り出せる。もし楽器演奏者の中の一人が歌もできれば、それはもうけものだ。より洗練されている音楽の一部をジャンプ・ブルースjump bluesと呼び、人々をクラブやレコード店に引っ張り込んだ。それは実に多様性に富んでいた。ジョニー・ムーアJohnny Mooreはギタリストで、ベースやドラムスを伴って演奏し、たいていはブルースを歌うピアニストと一緒だった。
最初に有名になったのはアイボリー・ジョー・ハンターIvory Joe Hunterだったが、最も有名なのはテキサス州テキサス・シティ出身で身長6フィートのやせたチャールズ・ブラウンCharles Brownで、滑らかな声がジョニー・ムーアズ・スリー・ブレイザーズJohnny Moore’ s Three Blazersとぴったり合った。
彼らの1946年のヒット曲「ドリフティン・ブルースDriftin’ Blues」は、物憂い、滑らかな嘆きの歌で、翌年の「メリー・クリスマス・ベイビーMerry Christmas, Baby」はさらなる大ヒットだった (この曲は何度か再録音されたが、オリジナルはエクスクルーシブ・レコードExclusive recordsだった) 。
1950年代を通して言われたのは、もし黒人の家で2枚のシングル・レコードがあるとすれば、1枚はこの曲であり、さらには、マイケル・ジャクソンMichael Jacksonの全盛期までに最もよく売れた黒人のレコードだったと言われた。
そのレコードが発売される頃までに、ジョニー・ムーアJohnny Mooreは、兄弟であり、ナット・キング・コール・トリオNat King Cole TrioにいたギタリストのオスカーOscar Mooreが加わった。
ジャンプ・ブルースの対極にいたのがワイノニー・ハリスWynonie Harrisだった。ハリスの繊細さは作曲、作詞ともムーアをかなり上回っていて、1948年にキング・レコードKing Recordsに移籍するとすぐに、ソングライター達が際どい歌詞を彼にたくさん渡した。
ハリスはずば抜けて優秀なブルース・シャウターだった。