ボ・ディドリーBo Diddley(1928~2008)ミシシッピ州マック・コム
![Bo Diddley – Bo Diddley – Vinyl (Indianapolis Press, LP, Album + 2 more), 1958 [r1535194] | Discogs](https://i.discogs.com/uFt_6w0e4XvJGzsamJMneqME_6Fw4SwxCvzpAfLBj74/rs:fit/g:sm/q:90/h:600/w:600/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTgyODAx/OTUtMTQ1ODUzNTI3/OC04NTAwLmpwZWc.jpeg)
エラス・オーサ・ベイツEllas Otha Batesとして生まれ、養子になり、8歳の時にはシカゴの従兄弟に育てられた。「ボ・ディドリー」という名前は、学校の少女が彼につけた。バプティスト教会で音楽に興味を抱くようになって、後にペンテコステ教会the Pentecostal churchで音楽が好きになり、ギター演奏に興味を持つようになった。1940年代には大工や機械工として働きながら、地元の行事やストリート・イベントで演奏し、チップをもらっていた。
彼が大ブレークしたのは1954年で、数人のミュージシャンと組んで「アイム・ア・マンI’m a Man」(ビージェイ・レコードVee Jay Recordsに断られた)を書き、チェス・レコードChess Recordsでレコーディングすると20位にチャートされた。

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チェスはこのレコードを1955年にリリースし、リズム&ブルース部門で大ヒットして1位となった。
彼は50年代半ばの典型的なロックンロール・アーティストではなかった。バンドには女性ミュージシャン(ドラマー)が参加していたし、曲は1955年当時の50年代の白人のティーンエイジャーの生活を歌ったものではなかった。エド・サリバン・バラエティ・ショーthe Ed Sullivan Variety Showに出演した彼は、「シックスティーン・トーンズSixteen Tons」を歌うように頼まれた。代わりに「ボ・ディドリーBo Diddley」(彼が書いた曲)を演奏し、以後のテレビ出演を禁止された(エド・サリバンの力で)。
1956年にミッキーとシルビアMicky and Sylviaのヒット曲「ラブ・イズ・ストレンジLove Is Strange」を共作した。


ソングライターとして、彼はほとんどの曲を書いた。ビルボードでトップ40圏外にチャートインしたのは1曲のみ。ボ・ディドリーの他の曲は、「セイ・マンSay Man」、「ユー・キャントゥ・ジャッジ・ア・ブック・バイ・イッツ・カバーYou Can’t Judge A Book By Its Cover」、「フー・ドゥ・ユー・ラブWho Do You Love?」、

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「ロード・ランナーRoad Runner」、「ヘイ・ボ・ディドリーHey Bo Diddley」、




「モナMona」、「プリティ・シングPretty Thing」など。


![Bo Diddley – Pretty Thing / Bring It To Jerome – Vinyl (7", 45 RPM + 3 more), 2010 [r4548941] | Discogs](https://i.discogs.com/2-S30K-aOW8kEuRgTwB2Qb9WS2_zyw1KM70fvwkFCPo/rs:fit/g:sm/q:90/h:597/w:600/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTE1OTY1/ODc3LTE2NjkzOTQ2/MTMtNjA2NS5qcGVn.jpeg)
彼は、ロックンロール誕生の時代に黒人として搾取されたことについて、非常に率直に話すアーティストだった。ボは音楽に関しては間違いなく思い通りの道を歩いた。彼はロックの殿堂入りしている。