デトロイトでは、新しいサウンドがクラブで生まれつつあり、ベリー・ゴーディBerry Gordyは、他の人のために書いた曲がヒットしたり失敗したりするのにうんざりしていた。

自分の周りにいる同じ考えの人を集めた。ほとんどの人は演奏者志望だが、姉のアンナAnna、妻のレイノマRaynoma、ミラクルスの作曲家のビル・スモーキー・ロビンソンBill “Smokey” Robinson、ローケル・ビリー・デイビスRoquel “Billy” Davisもいた。



ゴーディはまだ資金を必要としていたが、彼の3-Dレコード店 3-D Record Martが失敗した後、家族のバーベリー・コープ・セービングス・ファンドBer-Berry Co-op Savings Fundは、彼にお金を貸すことを渋っていた。
彼は800ドル必要だと計算したが、計画を練り直して試算した結果、ついに彼らの受け入れる枠組みを提示した。ゴーディは初めに音楽出版会社ジョビート・ミュージックJobete Musicを立ち上げ、いつかは自分が率いようと考えているレーベルからリリースする歌を管理するようにした。

1958年12月になるとゴーディはデトロイトで最高のスタディオ、ユナイテッド・サウンドUnited Soundに入るが、一緒にいたのはマーブ・ジョンソンMarv Johnsonという名前の20歳のシンガー、そして、フルートとサクソフォンのトーマス・ビーンズ・ボウルズThomas Beans Bowles、ギターのエディ・ウィリスEddie Willisとジョー・メシナJoe Messina、ベースのジェイムス・ジャマーソンJames Jamerson、ドラムのベニー・ベンジャミンBenny Benjaminからなるバンドも一緒で、「カム・トゥ・ミーCome to Me」と裏面の「ウィスパーWhisper」を録音した。
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彼はそのレコードをプレスして、自分の新レーベルのタムラ・レコードTamla recordsから、1959年1月末にタムラ101としてリリースした。
