もちろん、オジーは番組でリッキーがレコードをかけるシーンを急いで作り上げると、レコードは翌日には急に売れ出し、多くの地域マーケットで1位、全国では10位になるという両面ヒットになった。


![Ricky Nelson – I'm Walkin' / A Teenager's Romance – Vinyl (7", 45 RPM, Single), 1957 [r5505628] | Discogs](https://i.discogs.com/aqK90cok3WUQ8R1ZhtHD388tF2jx7DXHxERgu9X7U0k/rs:fit/g:sm/q:40/h:300/w:300/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTU1MDU2/MjgtMTM5NTEwNjc4/MS0zMDg1LmpwZWc.jpeg)
ルー・チャッドLew Chuddは自分のアーティストの一人の曲がヒットしていることに気がついて、リッキーが自分と契約したいかどうかオジーに聞き、すぐにリッキーはインペリアル・レコードImperial recordsと契約して、インペリアル初のティーン・スターになった。


リッキーはインペリアル・レコードで使ったのと同じバンドを番組にも使ったのだが、そこにはリッキーより1歳若いジェームス・バートンJames Burtonがいた。

彼はデール・ホーキンスDale Hawkinsと一緒に演奏し、ホーキンスのためにビッグ・ヒット、「スージー・キューSusie Q」用の非常に魅力的なギター・リフを作り出して、リッキーの2枚目のレコード「ビー・バップ・ベイビーBe-Bop Baby」とほぼ同時期にラジオでヒットしていた。

![Ricky Nelson – Be-Bop Baby – Vinyl (7", 45 RPM, EP), [r14464366] | Discogs](https://i.discogs.com/hH8vwDHSxvATX73MXyt58oMLUkJRPqvsDZu8ClDesrs/rs:fit/g:sm/q:40/h:300/w:300/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTE0NDY0/MzY2LTE1NzUwNjI3/MzEtODg0Ni5qcGVn.jpeg)

リッキーが番組の終わりにバンドと一緒に曲を演奏するかもしれない(ますますそうしそうな)ので、ティーンエイジャーたちは、「陽気なネルソンThe Adventures of Ozzie and Harriet」にチャンネルを合わせた。


しかしこれはたった一人の演奏者、一番組、一週間に一度だ。ABCテレビの夏の視聴率不振対策は演奏者をもっと増やすことで、それはカリスマ的ラジオ・スターが司会を務めるアラン・フリード・テレビ・ショーAlan Freed TV show(訳者注:バンドスタンドBandstandの間違いと思われる)だった。

これは大成功し、8月、フィラデルフィアにある傘下の会社WFILから全国放送に昇格させて毎日放送した。アメリカン・バンドスタンドAmerican Bandstandと名付けられ、その司会は、見た目はティーンエイジャーだが、実はそうでない(当時27歳だった)ディック・クラークDick Clarkだった。

クラークは本当にティーンエイジャーの時からラジオに出演していて、それがある面番組の売りだったが、毎日午後3:00~4:30というひどい時間帯に放送されていた。レコードをかけ、それに合わせて選ばれた子供の集団が踊るというのが定型のやり方だった。毎日一人か二人の演奏者が登場して最新のヒット曲を口パクで歌い、インタビュー形式で踊っている子達とやり取りをする(もちろん、通っている高校のことを話してもらう)。そしてジュークボックス審査員の子供たちが新発売の曲に点数をつけ、「ビートがいいから、それに合わせて踊れる。9点をあげよう。」という決まり文句を生み出した。クラークは毎週トップテンをカウントダウンし、番組のほかの部分と同じように全国的だと称していたが、ABCが全国で放送し始めたので、本当にそうなった。