最終的に8月、パーカーは自分をエルビスとニールの「特別顧問」とする書類に、プレスリー家とニールにサインさせ、「現行の契約書を更新」する権利をパーカーに与える条項を最後に付け加えた。
それからエルビスはより良い出演料で巡業に戻り(バンドは雀の涙ほどしか貰っていなかったのだが、エルビスのリクエストでドラムのディー・ジェイ・フォンタナD.J. Fontanaが加わるとさらに引き下げられた)、ある時はビル・ヘイリーBill Haleyと一緒にクリーブランドまで行って演奏した。
一方、パーカーとRCAは真剣に交渉を行っていたのだが、それは大佐がエルビスをRCAに行かせたかったからだ。10月末に、サム、大佐、トム・ディスキンTom Diskinがメンフィスで会い、RCAは契約に対し25,000ドルを払いそれ以上は出さないと提示したことを、パーカーはサムに告げた。
サムは、ジャドJudに金を返し、エルビスにも未払いの裏印税を借りていることは分かっていたので、35,000ドルに固執した。
毎年11月恒例ナッシュビルのディー・ジェイ・ウィークDJ Weekの時までには、エルビスはみんなの注目の的だった。エルビスは、ビルボード誌Billboardとキャッシュ・ボックス誌Cash Boxでは最も有望な若いカントリー・スターに挙げられ、両親と一緒にディー・ジェイ・ウィークに参加し、業界関係者と会って挨拶していた。ボブ・ニールBob Nealはそこにいて、少なくともエルビスの件に関しては、歴史の彼方に追いやられることは分かっていた。そしてもちろん、そこに大佐はいて、カーニバル出身の彼らしく、アンドリュー・ジャクソン・ホテルAndrew Jackson Hotelで生きた象を縛り付けたようなもので、まとったバナーには、記憶力の良い「象のようにハンク・スノウHank Snowは忘れない。ありがとう、DJ達」と感謝の気持ちを書いてあった。
エルビスはメイ・ボーレン・アクストンMae Boren Axtonとも会ったが、彼女は、自分の書いた曲は、彼がRCAと契約したら最初のミリオンセラーになるだろうと主張した。
友人たちがアクストンに自殺したティーンエイジャーの新聞記事を見せたのだが、その子は「淋しい道を歩く」とだけ書いたメモを残し、アクストンはその道にホテルを追加したのだった。
実はエルビスは、曲を売り込まれることが好きではないのだが、アクストンはフロリダでとても良くしてくれたので、2、3分、時間を割いて聞き、彼女に繰り返し演奏してもらって、たぶん覚えてしまったのだろう。