ロックンロールの歴史 102

巡業は計画通り実施され、エルビスの最大の市場である西テキサス全域を回り、5月は南に下ってフロリダに行ったとき、興行主で、教師、ジャーナリスト、作曲家もバランスよくこなしていたメイ・ボーレン・アクストンMae Boren Axtonと会った。

Axton, Mae Boren - Elvis-ForumBob Barry's Unearthed Interviews Podcast: Mae Boren Axton - Wisconsin  Broadcasting Museum

アクストンはパーカーと面談し、ショーのプロモーションを一緒に行い、パーカーがエルビスに関心を深めていることに気づいた。「パーカーの目にはドルマーク」が付いていたと、後にアクストンは言った。そこにジミー・ロジャース・スノウJimmie Rodgers Snowの手伝いに来ていたRCAのプロモーション担当はエルビスに感動し、そしてパーカーが関心を持っていることを知り、レコード店に行ってエルビスの全レコード(その時点ではシングル4枚)を購入した。

Jimmie Rodgers Snow, Hank Snow, Carol Lee - Jimmie Rodgers Snow: Treasures  Untold - Amazon.com Music

それをRCAのカントリー部門責任者、スティーブ・ショールズSteve Sholesに渡すためにナッシュビルに持ち帰った。

Steve Sholes : Signed Elvis Presley to RCA | Elvis ArticlesNashville Then: 1967 CMA Awards show

 

ショールズも感動した。しかし、他に動きはなく、ボブ・ニールとエルビスとの契約は再交渉の結果、1956年までとなった。ところが、カントリー音楽は少し変化していた。23歳のファロン・ヤングFaron Youngは、1953年に、初ヒットである「ゴーイング・ステディGoing Steady」をレコーディングした時、もっと若いファンを狙っていた。

Goin' Steady ‑「アルバム」by Faron Young | SpotifyFaron Young - Goin' Steady / Just Out Of Reach (Of My Two Open Arms) -  Capitol - USA - F2299 - 45cat

そして、彼の1955年のヒット曲、「リブ・ファースト・ラブ・ハード・ダイ・ヤングLive Fast, Love Hard, Die Young(And Leave a Beautiful Memory)」で少年非行領域ギリギリのところまで踏み込み、エルビスのサン・レコードの2曲さえも、その年チャート・インした。

Faron Young quote: Live Fast, Love Hard, DieYoung (And Leave A Beautiful  Memory).

「ベイビー・レッツ・プレイ・ハウスBaby Let’s Play House(R&Bアーティストのアーサー・ガンターArthur Gunterのカバー)」と、

Arthur Gunter – Baby, Let's Play House (The Best Of Arthur Gunter) – CD  (Compilation), 1995 [r7738904] | DiscogsBABY LET'S PLAY HOUSE/ARTHUR GUNTER /アーサー・ガンター|SOUL/BLUES/GOSPEL|ディスクユニオン・オンラインショップ|diskunion.net

Baby, Let's Play House' - An EIN SpotlightElvis Presley – Baby Let's Play House – Vinyl (10", 78 RPM), 1955  [r1286528] | Discogs

メンフィスのファンが書いた「アイム・レフト・ユアー・ライト・シーズ・ゴーンI’m Left, You’re Right, She’s Gone」、

Elvis Presley – I'm Left, You're Right, She's Gone – PowerPop… An Eclectic  Collection of Pop CultureI'm Left, You're Right, She's Gone | Elvis Presley Official Site