シカゴでは、チェス兄弟the Chess brothersが絶好調だった。
マディ・ウォーターズMuddy Watersは何をやってもうまくいっているようだったし、ハウリン・ウルフHowling’ Wolfはそのすぐ後に続いていた。
リトル・ウォルターLittle Walterは、まだ自分のヒット曲「ジュークJuke」を超えていなかったが、超えようとしなかったわけではなかった。
そして、アラン・フリードAlan Freedがチェスに連れてきたグループ、ムーングロウズThe Moonglowsは、「シンシアリーSincerely」が大ヒットしてチャートに居続けたが、トップになったマクガイヤー・シスターズThe McGuire Sistersのカバーにだけは負けた。
そんなことは取るに足らないことで、このグループはまだまだこれからだった。そして、「ウィー・ビロング・トゥゲザーWe Belong Together」は、すぐ後を追って出たがカバーされず放送もされなかった。チェス兄弟の門戸開放政策(積極的に新人アーティストの曲を聞く方針)は2月に再び成果を上げ、エラス・マクダニエルEllas McDanielとビリー・ボーイBilly Boyが、自分たちの録音した「アイム・ア・マンI’m a Man」と「アンクル・ジョンUncle John」のデモ・テープを持って現れた。
翌日、もう一度来てくれと頼まれ、マクダニエルとアーノルドは、デモ・テープを聴こうと待っている聴衆がいるのに気付いたが、それはマディ・ウォーターズ、リトル・ウォルター、チェスの両兄弟だった。
全員が2曲とも気に入った。「アンクル・ジョン」はドンドンというビートがいつまでも続き、それに乗せてマクダニエルが本来は童謡だった歌を歌った。「アイム・ア・マン」はゆっくりした、時間の止まるような伴奏の上に、凄みを利かせた歌い方だった。それでも、二、三、変更する必要があった。マクダニエルは実生活では引退したボクサーで、黒縁眼鏡をかけた会計士のように見えるのがまずいけれど、名前も変えなければいけない。ビリー・ボーイは、倉庫に針金を打ち付け、もう一方の端を箒にくっつけて、ビーンと音が鳴るようにはじく南部のやり方、ディドリーの弓という習慣を思い出した。ビリーの友人はボ・ディドリーBo Diddleyという芸名になり、翌日の3月2日、彼らの友人でマラカスを演奏するジェローム・グリーンとともにセッションから離れた。
ビリー・ボーイの歌は発売されなかったが、ボ・ディドリーの曲は発売され、「ボ・ディドリーBo Diddley」と「アイム・ア・マンI’m a Man」は、何もしないですぐに両面ヒットになった。