当然、エルビスは、新進気鋭のカントリー・デュオやそのマネージャーなど、好奇心の強い地元の人たちを惹きつけた。名刺によると、チャールス・ハーディン・バディ・ホリーCharles Hardin “Buddy” Holleyとボブ・モンゴメリーBob Montgomeryは、ウェスタン&バップWestern and Bopを演奏したとある。
名刺には、地元のカントリー・ラジオ局KDAVのDJであるハイ・ポケッツ・ダンカンHi Pockets Duncanがマネージメントの連絡先となっている。
バディとボブはどんな仕事でもできるだけ演奏し、徹底的にライバルの研究をした。彼らも仕事の入っていない時にはラジオ局でレコーディングすることもあった。しかし、ルーボックのほとんどのティーンたちと同様に、実際にはそのラジオ放送は聞かなかった。というのは、カントリー・ミュージックは少しダサかったからだ。自分たちと同じ年頃の子、エルビスがコットン・クラブの舞台で大騒ぎしているのを見るのはちょっとした驚きだった。幕の合間に、バディとボブはその子のところへ出向いて行くと、その子は隅で一人座ってコークを飲んでいた。「あのね、あいつは本当にいい奴で、フレンドリーだった」と後にバディは、ハイ・ポケッツに話した。翌日、高級自動車ポンティアックの販売特約店の大オープン・ショーが有って、エルビス、スコッティ、ビルが演奏し、バディやボブも出演したので、テネシーから来た連中と友達になった。
そして次の数週間、バディとボブはエルビス・プレスリーの曲のリクエストが段々増えたので、覚えていった。次にエルビスが来た時はバスに乗っていて、そのバスをバディとボブが町境で捕まえた。エルビスは降りて車に乗り換え、バディたちが、たいしたところは無いがルーボックの流行りの場所のツアーに出かけ、コットン・クラブでエルビスの前座を務めた。
西海岸では、新たな波の到来が変化をもたらした。モダン・レーベルModern labelが最初の犠牲者で、ほぼ壊滅され、比較的新しいRPMレーベルに集中されたが、ここには唯一安定して売れていたアーティスト、BBキング B.B.Kingが所属していた。
エタ・ジェイムズEtta Jamesはモダンから売り出され、彼女の「ザ・ウォールフラワーThe Wallflower」(ロール・ウィズ・ミー・ヘンリーRoll with Me, Henryとしても知られる)は、ワーク・ウィズ・ミー・ヘンリーWork with Me, Annieのわいせつでないバージョンで、このワークは明らかにダンスだった。
白人シンガーのジョージア・ギブスGeorgia Gibbsはすぐに飛びつき、彼女バージョンの「ダンス・ウィズ・ミー・ヘンリーDance with Me Henry」(別名「ウォールフラワーWallflower」)は3月に、ポップ・ヒット1位となった。
(ギブスは既にこの年、ラバーン・ベイカーLavern Bakerの「トゥイードル・ディーTweedle Dee」のカバーでスタートしていて、そのせいでベイカーがポップ・チャートで上昇を妨げた。ベイカーにとっては最初のレコードなので、オリジナルを発売したベイカーとアトランティックAtlanticの関係者は不愉快だった。)
少なくとも、ハンク・バラードは自分の曲をジェイムズ(そしてギブス)が流用したことについて、ユーモアのセンスがあり、この年の後半に(ヘンリーは偏平足という意味の)「ヘンリー・ゴット・フラット・フィート(・キャント・ダンス・ノー・モア)Henry’s Got Flat Feet(Can’t Dance No More)」をリリースした。
しかし、ジェイムズのモダンでの活動は長くは続かなかった。