メンフィスからミシシッピ川を北上したセントルイスで、逆の現象が起こっていた。牧師の子供で、いうことを聞かないチャールズ・エドワード・チャック・ベリーCharles Edward “Chuck” Berryは、高校を出たばかりの時、武装強盗と自動車窃盗で服役し、1952年までには、トミー・スティーブンス・コンボThe Tommy Stevens Comboで演奏していた。
このコンボは小さなバンドで、常連の黒人客を相手にした比較的洗練されたナイトクラブ、ハフス・ガーデンHuff’s Gardenの客に、人気のある黒人ヒット曲を演奏していた。ある晩、退屈からか、ベリーは突然カントリーの曲を観客に向けて演奏し始め、観客は熱狂した。スティーブンスは、「少しぐらいショーマンシップがあってもいいじゃないか」と彼を励まし、グループ全員が乗りに乗って演奏し、ベリーのカントリー曲と新趣向の曲はショーのハイライトになった。脇から見ていたのは、ベリーより2歳年上のブギウギ・ピアニストのジョニー・ジョンソンで、あまり洗練されていないコスモポリタンCosmopolitanというところだったが、サー・ジョンズ・トリオThe Sir John’s Trioのメンバーとして演奏していた。
12月末、サー・ジョンズのサクソフォン奏者が病気になり、ニュー・イヤーズ・イブ・ショーを開催できないということで、ジョンソン(要はバンド名のサー・ジョンのこと)がベリーに、そのイブニングのエンターテインメントの一部として、カントリーの演奏をやらないかと持ちかけた。その夜の終わるまでには、ベリーがバンドに加わり、このエンターテインメントの一部として常に加わることをクラブのオーナーが主張した。この編成は、1954年のある日、トミー・スティーブンスがベリーに電話して、彼のバンドがクランク・クラブthe Crank Clubのハウス・バンドになり、仕事が増えた上に、それぞれの仕事の報酬はベリーがサー・ジョンでやっていた2倍以上になると言われるまで続いた。
ベリーはすぐに、彼らと一緒に元に戻った。間もなくして、地元のあるレコード・オーナーが、「自分は、カリプソ・ジョーCalypso Joeのために作曲しているが、ジョーと一緒に作るレコードでギターを演奏しないか」と電話をかけてきた。
ベリーは、レコーディングを経験したことで勢いが付き、コスモポリタンのオーナーがベリーに戻って来てほしいと頼んだ時、戻るにあたって、バンドリーダーになること、契約を結ぶこと、バンドは積極的にレコード契約を追求することの三条件を出した。三つとも了承されたが、セントルイスにはリズム&ブルースのレーベルがあまりないので、誰が彼らのレコードを作ってくれるかは難しい問題だった。