R&Bへの関心が高まる中で、アラン・フリードAlan Freedは大いに恩恵を受けた(彼が「アニーAnnie」のレコードをかけたかどうかを知ることは興味深い)し、クリーブランドで開催した『ムーンドッグ・ボールMoondog Ball』ショーは売り切れだった。
オハイオ州の他の都市にも広げ、2、3人のメイン出演者と、そのバックに元気の良いポップ・ジャズを演奏するオーケストラを出演させた。その後、拡大し州外にも進出し始めた。1954年5月、彼はニュージャージー州ニューアーク・アーモリーで、2ドルというとてつもなく高い値段のチケットのショーを開催したが、約1万人の有料入場者を呼び込み、遅く来たために売り切れのショーに入場できなかった数千人はがっかりした。ビルボード誌によると、観客は概ね15歳から20歳で、20%が白人だと報じた。彼の次の公演はニューヨーク市ブルックリン・エベッツ・フィールドで、クローバーズThe Clovers、ドミノーズThe Dominoes、
オリオールズThe Orioles、ファッツ・ドミノFats Domino、
マディ・ウォーターズMuddy Waters、リトル・ウォルターLittle Walter、
カウントベイシーズ・オーケストラCount Basie’s Orchestra、バディ・ジョンソンズ・オーケストラBuddy Johnson’s Orchestraが出演した。
フリードがニューヨークで長い時間を過ごしていた理由の一つは、ニューヨークに自分の番組を移す交渉を詰めていたからであり、複数放送局配信の維持も含めて、1010AMのWINS局との間で75,000ドルという天文学的金額の契約を締結したことを7月に発表した。
彼はオハイオに戻り、もう一度『ムーンドッグ・ボールMoondog Ball』をアクロンで上演して、それをWJW局でライブ放送し、家に帰って荷造りした。
フリードが唯一しなければならない大きな変更は、『ムーンドッグMoondog』という名前を外すことだ。なぜなら、本名をルイ・ハーディンLouis Hardinと言う盲目で顎髭を生やした大男の所有になっていたからで、その男はバイキングの正装に身を包んで6番街をぶらつき、自分で作ったパーカッションの曲を、お金を払ってくれた人には誰にでも演奏していた。