多くのレーベル・オーナーは、レコーディング所有権より出版著作権の方がはるかに価値のあることを知ったために、自分たちのアーティストの楽曲著作権の全部または一部を即座に取得したが、例えアーメット・アーティガン(署名するときはAナゲター A.Nugetreだった)は、歌唱力がなく、歯切れが良くなまりのある声で歌詞を話さなくてはいけないとしても、この音楽のファンで愛していたことと、そして、何が人を動かすかを理解していたことは明らかだった。
(ナゲターのソングライティングは非常に多彩で成功していたので、シド・ネイザンSyd Nathanは、自分のところのA&R責任者カール・ルボーCarl Lebowに、ナゲターを探して連れてくるように命じた。ニューヨークの電話帳にナゲターは見つからないので、アトランティックに電話して、どうしたら見つけられるか尋ねた。電話の相手は、その名前を逆に綴れと助言して電話を切った。)
一つ確かなことは、アーティガン、エイブラムソン、ウェクスラーのアドバイスによって、レイ・チャールズRay Charlesはチャールズ・ブラウンCharles Brownの真似をやめて、もっとゴスペルのテクニックを使うボーカルになった。
誰もが獲得したいアーティストは、ミシシッピ州に本拠地を置くギタリストのエルモア・ジェームズElmore Jamesで、その演奏スタイルはロバート・ジョンソンRobert Johnsonが「アイ・ビリーブ・アイル・ダスト・マイ・ブルームI Believe I’ll Dust My Broom」で使っていたものをもとにしたギター・リックから構成されていた。
この曲は、ジェームズが1952年に「ダスト・マイ・ブルームDust My Broom」としてトランペット・レコードTrumpet recordsで再録音したが、このレーベルはミシシッピ州ジャクソンにあり、リリアン・マクマリーLillian McMurryが所有し、その夫はジェームズが働いていたラジオ修理店を所有していた。
ジェームズが繰り返しレコーディングした中でも、このバージョンは自称サニー・ボーイ・ウィリアムソンSonny Boy Williamsonのハーモニカ演奏をフィーチャーしているが、これは1948年に殺されたブルーバード・レコードBluebird recordsのブルース・スターへのオマージュか、単にオリジナルが死んでしまったことを知らない人たちを混乱させるためのものだった。
いずれにせよ、サニー・ボーイは1910年(もう一人の4年前)に生まれ、1930年代にチャーリー・パットンCharley Pattonと一緒に演奏を始めたミュージシャンの一人で、おそらくアレック・ライス・ミラーAleck “Rice” Millerという名前だったろう。
レコードはトップテン・ヒットとなり、モダン・レコードModern recordsもチェス・レコードChess recordsも彼を探した。マクマリー夫人は、メンフィスやシカゴに出て行かなかったミシシッピ州のミュージシャンのために、ジャクソンに音楽産業を打ち立てようという強い意志を持ち続けたが、それでもジェームズはバスに乗ってメンフィスに行き、レスター・ビハリLester Bihariに自分を売り込むのを止めなかった。
ビハリはすぐにジェームズをレコーディングし、メテオール・レコードMeteor records最初の曲「アイ・ビリーブI Believe」(実質的には「ダスト・マイ・ブルームDust My Broom」と同じ)を大急ぎで発売した。
こちらもトップ10入りした。おそらくロサンゼルスにいるビハリ兄弟たちは、最終的にレスターのことを誇りに思っただろう。兄弟たちは(レスターも)、大きな過ちをしようとしていることに気づかなかった。