だが、キャピトル・レコードCapitol recordsは戦後レコード産業の変化を象徴していた。
ニューヨークに本拠を置く大レーベルとしては、老舗レーベルとラジオ・ネットワークが合併したRCAビクター・レコード RCA Victor records、コロンビア・レコードColumbia records、デッカ・レコードDecca recordsがあった。
全社ともナッシュビルにはオフィスがあったが、ウェスト・コーストは無視していた。
これらのレコード会社は、主流のポップ・ミュージックをニューヨークで、主流のカントリーをナッシュビルでレコーディングした。
ハンク・ウィリアムズHank WilliamsがレコーディングしていたMGMの本拠はニューヨークにあったが、MGMは自社をハリウッドにある大手映画スタディオの1部門であって、レコード・レーベルだとは真剣にとらえていなかった。
キャピトルは、ソングライターとして成功したジョニー・マーサーJohnny Mercerが、やはりソングライターで映画につながりがあるバディ・デシルバBuddy Desylva、そして、ハリウッド最大のレコード店ウォリクス・ミュージック・シティWallichs Music Cityのオーナーの力を借りて1942年創業した。
マーサーの目標は単純だった。ロサンゼルスには、ニューヨークの誰も接触していないタレントがたくさんいて、映画のために書かれた曲をスタディオ・オーケストラでレコーディングできるということだった。それに何といっても、マーサー自身も曲を作っていた。カントリー・ミュージックも大好きで、もしハリウッドでなくても近隣のサンフェルナンド・バレーやベーカーズフィールドには確実にそれを聴く人々がいて、クラブが全国から演奏者を引き付け、その多くはカリフォルニアに定住することが分かっていた。「我々は、最高の歌、最高の演奏を一般大衆に提供するために自由市場に参入する」とグレン・ウォリクスGlen Wallichsは発表した。
「快い音楽、スイング・ミュージック、ハワイアン、ヒルビリーhill billy(原文のまま)、レース・ミュージックの完全な目録を企画している。」マーサーは、資金とウォリクスのおかげでレコード業界にふんだんにコネがあったので、既存の配信ネットワークに頼ったり、人材を確保しておく必要がなく、いろいろな点でカリフォルニアを独り占めしていた。キャピトルは独立系レーベルだった。