カントリー・ミュージックも、戦争を経て新しいものをもたらしたが、それがハンク・ウィリアムズHank Williamsだった。
ウィリアムズのもたらした影響は、彼の後に登場したカントリー演奏者(彼と同時にキャリアをスタートした人も少なくない)にあまねく広まったので、現代から見ると彼自身が革命的だと思われることはなく、彼のサウンドは画期的ではなかったが作曲は画期的だった。伝説によると、ウィリアムズは、育ったアラバマ州モンゴメリーで地元の黒人ストリート・パフォーマーのティー・トットTee Totから、ギターとブルースを習い、その結果、それまでのカントリーのソングライターとは異なる曲作りをするようになった。
カーター・ファミリーThe Carter Familyが商業的カントリー・ソングの最初のひな型を作った時代から、カントリー・ソングは理想化された過去、無くなった家、天国に召された親、事情によって離れ離れになったり死んでしまった恋人を慕うもので、すべて、歌手が変えることのできないことだった。
カントリーは運命を歌い、今より良かった過去へのノスタルジアを歌い、南部の田舎から北の工業地帯に移住した人が思い描く故郷を理想化していた。ハンク・ウィリアムズはブルースを自分のものとして消化し、そのルールを変えた。彼の歌はこうだ。「これは私に起きたか、あるいは起こりつつある。そしてこんな風に感じる。」彼は恋をし、幸せだった。恋人は彼を捨て、彼は怒り復讐したいと思う。彼は誰かと一緒であってもなくても、楽しい時間を過ごすことを楽しみにしている。タイトルがそれを物語っている。「ユア・ゴナ・チェンジYou’re Gonna Change(or I’m Gonna Leave)」、「アイ・ジャスト・ドント・ライク・ディス・カインド・オブ・リビンI Just Don’t Like This Kind of Livin’」、
「アイ・キャント・ヘルプ・イットI Can’t Help It(If I’m Still in Love with You)」、「アイム・ソー・ロンサム・アイ・クッド・クライI’m So Lonesome I Could Cry」、
「ホンキー・トンキンHonky Tonkin’」。
これらの曲はカントリーの聴衆にとても受け、ウィリアムズはスターになったのだが、当人にとって複雑な幸運だった。すでに重症のアルコール中毒だったが、さらに不安定で信頼できなくなってしまっており、1953年のウェスト・バージニアにおけるニュー・イヤーズ・イブ・ショーに向かうリムジンの後部座席で、処方薬の過剰摂取のために29歳で死亡したのだ。
短期間のうちにカントリー・ミュージックを変えただけでなく、本格的なソングライターとしてポップの主流派から認められ、マーガレット・ホワイティングMargaret Whitingからファッツ・ドミノFats Dominoまでが彼の曲をレコーディングした。