北に上がってニューヨークでは、アトランティックAtlantic recordsが、自分たちのレコードの一枚が小包に入ると必ず南部流通業者の売り上げが急増することに気づいた。
間もなくスポンサー達は儲かるチャンスを逃していることに気づき、自分のレーベルを始めた。ランディ・ウッズRandy Woodsは1950年にドット・レコードDot recordsを、アーニー・ヤングErnie Youngは1952年までにエクセロ・レコードExcello records(ブルース)とナッシュボロ・レコードNashboro records(ゴスペル)を立ち上げて稼働させた。
一方ワイノニー・ハリスWynonie Harrisには重大な問題があった。
ハリスは身長180㎝の女殺しのイケメンで、ビッグ・ジョー・ターナーBig Joe Turnerのおかげでボーカル・スタイルを作り上げたが、まるっきりのまねではなかった。ワイノニーは、1944年にラッキー・ミリンダ―Lucky Millinderの大きな人気バンドに参加して、ミリンダ―のヒット・ソング「フー・スルー・ザ・ウィスキー・イン・ザ・ウェルWho Threw the Whiskey in the Well?」のボーカルを務めた。
これで有名になったのでソロとして十分やっていけるようになり、アポロのべス・バーマン・レコードBess Berman recordsから非常にたくさんのレコードを発売したが、あまり売れなかった。彼の歌唱力には疑いの余地がないので、必要としていたのは明らかに良い詩を書ける人だ。1947年に、事態は良い方向に進み、キング・レコードKing Recordsと契約し、そこでヘンリー・グローバーHenry Glover(この人もラッキー・ミリンダ―の同窓生)とラルフ・バスRalph BassのA&Rチームと組んだ。
少なくとも当時、A&Rは文字通り、アーティストとレパートリーのことで、レコード会社のA&R部門は、演奏タレントと、良い仕事ができるような楽曲とを結びつける責任があった。ワイノニー・ハリスはツアーを続けていたが、ニューオーリンズで演奏する日まではキングでヒットはなく、彼に心酔しているロイ・ブラウンRoy Brownという男と会うのを断った。
ブラウンは背が低く丸々と太っている元ボクサーで、ニューオーリンズのクラブで働いていて曲を書き、それをハリスに渡したかった。ブラウンは断られて落胆し、そのクラブで演奏している別のシンガー、セシル・ガントCecil Gantに接触し、その曲を歌った。
ガントは広い人脈を持っていたのですぐに、ニュージャージーに本拠地のあるデラックス・レコードDeluxe Recordsの会長、ジュール・ブローンJules Braunに(伝説によれば午前4時)電話をした。最初に、ブローンはブラウンに契約書を送り、ブラウンはスタディオに入って「グッド・ロッキン・トゥナイトGood Rockin’ Tonight」をレコーディングした。
キング・レコードのA&Rチームの一つがこの曲を聞いて、ハリスをスタディオに送り込みレコーディングすると、キングの知名度が効き、すぐに人気が出て、1948年夏になると黒人チャートのトップに躍り出た。
ブラウンのバージョンも、最高13位となり、さほど悪い結果ではなかった。