第3章 ブルース、鳥、ムーンドッグ
1950年までに、レコード材料シェラック不足は終わり、数社のレコード会社は塩化ビニールに転換したが、少なくともシェラックに比べれば、この方が安く壊れにくかった。
アメリカ音楽家連盟the American Federation of Musiciansのジェームズ・ペトリロJames Petrillo会長は、将来は自分にかかっていると認め、組合はより和解的な立場をとってストライキを終結させた。市場には大量のレコードが出回り、ブルースやカントリーなど少数の人しか関心を持たないジャンルも同様だった。
ところでレコードを買うのは誰だろう?
答えはジュークボックスのオペレーターで、少なくとも独立系レーベルにとってはその通りだ。
彼らがジュークボックスに入れたり抜いたりした。ジュークボックスはどこにでもあり、バー、レストラン、旅館、あるいは床屋や、思いもよらない所に有って、例えば、教会には、神聖な場所以外に娯楽エリアがあり、ゴスペル・レコードが一杯入ったジュークボックスを置いて、ディナーなど社交行事のムード作りをした。
ジュークボックスのトーンアームが重くて、特にシェラック製だと、かけるレコードをすり減らしてしまうので、大ヒットしたレコードは2週間に1回交換することになる。
もし個人消費者がレコードに興味を持ったなら、ジュークボックス・オペレーターから買い取ったレコードをそろえているレコード店で買うのだ。
個人消費者は、なかなかカントリーやブルースの新品レコードを買わなかった。
主流のポップスはディスク・ジョッキーのラジオ時間枠にかけられるが、最も聴衆多い夜は、「甘美な」ダンス・ミュージック(または、それを演奏する非常に多くのミュージシャン風に言えば「ミッキー・マウス・ミュージックMickey Mouse music」)をオーケストラが生演奏する時間帯だった。二、三の顕著な例外を除いて、ブルースとカントリーは実質的にラジオでかからなかった。カントリーのライブ放送は、ナッシュビルにあるWSM局のグランド・オール・オプリGrand Ole Opry、シカゴにあるWLS局のバーン・ダンスBarn Dance、ルイジアナ・ヘイライドLouisiana Hayride(ルイジアナ州シュリーブポートにおいて1948年にKWKH局が始めた)が毎週放送され、そしてもちろん、たいていは早朝にライブで演奏する短時間ローカル番組があった。
オプリ、バーン・ダンス、ヘイライドは、他のほとんどのラジオ局が放送しない夜間に、出力を上げて送信することが許可されたので、クリアーに聴ける放送局で放送され、その結果、はるか遠くにいるリスナーも、大気が信号を地球に跳ね返す「オゾン・スキップ」のおかげで、オリジナルの信号よりも遠い地域で受信することが可能だった。