レオとエディのメスナー兄弟Leo and Eddie Mesnerによるアラディン・レコードAladdin Recordsは、ジャズ・レーベルのフィロ・レコードPhilo Recordsとして1945年にスタートしたが、1948年にエーモス・ミルバーンAmos Milburnの「チキン・シャック・ブギChicken Shack Boogie」がヒットすると、すぐに関心をブルースに転換した。




![Amos Milburn – It Took A Long, Long Time / Chicken Shack Boogie – Vinyl (7", 45 RPM), 1949 [r4866901] | Discogs](https://i.discogs.com/NbOxVuwzuo38yBDicoImXodLi8Y7W4XYisBaAyGEdxE/rs:fit/g:sm/q:90/h:384/w:386/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTQ4NjY5/MDEtMTYxNjYxMjg0/NC02NzA5LmpwZWc.jpeg)
次がルー・チャドLew Chuddのインペリアル・レーベルImperial labelで、ロサンゼルスのメキシカン・コミュニティの作った音楽のためのマーケットが利用されていないとチャドが感じ、その活用のために設立され、次の2人は何とかある程度ヒットした。


1人はエドマンド・マルティネス・トスタドEdmundo Martinez Tostado、通称ドン・トスティDon Tostiで、メキシコの町、タスコを歌った「パチュコ・ブギPachuco Boogie」は、東ロサンゼルスの10代にとってテーマソングであり、ドンの数あるヒット曲の中で初ヒットとなった。

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もう1人はラロ・ゲレロLalo Guerreroで、その「ミュイ・サブロソ・ブルースMuy Sabroso Blues」と「マリフアナ・ブギMarihuana Boogie」もインペリアル・レコードにとって大ヒットになった。
しかし、ニューオーリンズでレコーディングした2、3曲が多少ヒットした後、チャドはニューオーリンズへ行ってタレントをスカウトし、バンドリーダーのデイブ・バーソロミューDave Bartholomewによってハイドアウェイ・クラブに連れて行かれ、20歳のピアニストのアントイン・ファッツ・ドミノAntoine “Fats” Dominoを発見する。


ドミノは、ジェリー・ロール・モートンJelly Roll Mortonやそれ以前にはるばると遡る「ピアノ・プロフェッサー」の伝統を継承していた。

ニューオーリンズはイーストLAよりも金を稼げると、チャドは直感した。