最初にレコードをかけたラジオ局は、放送日の中の小さな放送枠しか使わなかったが、レコードをかけるというこの慣習を1926年、つまり、レコードの流行が起きたちょうどその頃に始めたのは注目に値する。圧倒的大多数のラジオ音楽は生演奏で、ラジオ放送網を介してニューヨークの豪華なホテルからダンス・オーケストラを放送したり、ヒルビリー・バンドやゴスペル・カルテットがリスナーを朝早く起こして、農作業の様子を伝えたり、地方の小さな駅でスポンサーの小麦粉や薬を売るためだった。
ラジオは、ニュース、ドラマ、コメディ、ライト・エンターテインメントのメディアとして、アメリカ人の生活の中でますます重要な要素になった。
カントリー音楽は、WSM放送局のグランド・オール・オプリGrand Ole OpryやシカゴのWLS放送局のバーン・ダンスBarn Danceで放送され、黒人を含めリスナー数はとても多かったが、主流な番組ではなかった。
ブルースは、ベシー・スミスBessie Smithやアルベルタ・ハンターAlberta Hunterなどのレコーディングした洗練された曲でさえ、ラジオで放送されることはなかった。誰も聞かないと思われていたのだ。
ラジオがレコード売り上げにとってまだ重要でなく、売り上げ数字以外にはリリースしたことに対する真の反応がなかったので、レコード会社は何でも試した。ニューヨークやシカゴなどの都市におけるエスニック社会では、エンターテインメントが活況を呈していたので、ウクライナやイディッシュの音楽を見つけたり録音することは容易で、小売店に配られていたレコード会社のカタログには、小売店が注文したいときのためにレコードのシリアル・ナンバーが載っていた。メキシコ音楽は南西部、ギリシャ音楽はニューイングランドで人気だった。そしてブルースは、都会と地方の両方とも、カタログのレース欄に載っていた。