この時、ビクターはチャンスだと考えた。プロデューサーのラルフ・ピアRalph Peerは、南部人で芸歴はオーケーOkehから始まり、「クレージー・ブルースCrazy Blues」のレコーディングを承諾して、商業ベースで成功した最初の伝統的カントリー・アーティストのフィドリン・ジョン・カーソンFiddlin’ John Carsonを数年後に見い出した。独特な音楽を聴く能力があることを知って、ビクターは才能ある人材発掘のためにピアを雇った。
ラルフはバージニア州とテネシー州の境界をまたぐ(州の境界線が実際にステート・ストリートの中心を走っている)ブリストル市を選んだが、その主な理由は、ポップ・ストーンマンPop Stonemanやヘンリー・フイッターHenry Whittier等、既にビクターでレコーディングしたほかのアーティストたちがその近くに住んでいたので、ビクター・レコードVictor Recordsのオーディションに、才能ある人材を募集する広告の一助になるという理由からだった。
1927年7月25日から8月5日までとして広報活動をしたが、反応が鈍かったので、ストーンマン・ファミリーThe Stoneman Familyのセッションを手配して、新聞記者を招待し見学させた。
その結果、ストーンマン・ファミリーがレコードとツアーでどれほど金を稼いだかということを強調した記事が出て、ピアのところには突然応募が増え、スターになる見込みのある人材が、自動車、馬、そして徒歩でも勝負しにブリストルにやってきた。8月1日、マイクの前に座ったのは、バージニア州メイシス・スプリングスから来たカーター・ファミリーThe Carter Familyトリオで、A.C.と彼の妻のサラSara、そしてサラの妹、メイベルMaybelleだった。
彼らは結局、その日と翌日に6曲レコーディングした。ピアがミシシッピで会った歌手は、HCスパイア H.C. Speirが不採用にしていたが、8月4日にレコーディングした。その歌手はジミー・ロジャースJimmie Rodgersで、自分のグループのテネバ・ランブラーズThe Tenneva Ramblersと一緒に町に来たのだが、何かが起きて(何かは誰にもわからない)、そのグループ抜きでレコーディングし、そのグループはその日遅く別のミュージシャンと一緒にレコーディングした。