もしブルースが深南部で黒人音楽の中核的要素なら、同じころに東海岸にやって来た、同様に重要なもう一つの形がラグタイムだ。これは、ピアノをベースにして作られ採譜されたシンコペーションの音楽形式で、多くの場合、最も初期のジャズと同時期に同じ場所で生まれた。ラグタイムは、売春宿で「ピアノの教授」がピアノのある応接間で演奏するほど気品のある楽曲かも知れない。しかし、すぐに元のいかがわしい出自が消え、ボードビルや中流階級の上品な応接間で流行するようになった。最も注目されたのは、訓練を受けた黒人ピアニストのスコット・ジョプリンScott Joplinと契約していた楽譜出版社が、後押ししたことだった。
ジョプリンは、野心的な出版社のために利益を上げた唯一のラグタイム作曲家とは言えないが、彼の膨大な作品の中には、特に、小規模楽器アンサンブルやオペラのための音楽などがあった。
そして、ラグタイムが特にギターに置き換えられたわけではないが、そのアイデアが取り入れられた。ジョージア州のテレピン油採取所で、バレルハウスと呼ばれるラグタイムの一形式をピアニストが演奏しているのを聞いたギタリストが、ハーモニーを試し、メロディを作るための複雑な指弾きを編み出して、譜表の多重線やピアノ音楽の扱いにくいリズムを模したギター・スタイルを開発した。
これが、ジョージア州、カロライナ両州の田舎における黒人大衆音楽の基礎になった。
ラグタイムの考えが実現したもう一つの場が、滑稽な歌をよく演奏していたメディスン・ショーだった。
そのコード進行もまた、ブルースの一形態でありホウカムhokumとして知られるようになった音楽タイプの基礎になり、黒人、白人の両方で伝統になった。
アンクル・デイブ・メイコンUncle Dave Maconやハーモニカ・フランク・フロイドHarmonica Frank Floydなどメディスン・ショーの白人演奏者が、自分たちのレパートリーにホウカムの要素を取り入れ、それをメンフィスの黒人演奏者が都市音楽の特徴にした。
ホウカムは、人気者のメンフィス・シークスMemphis Sheiksなど、主にジャグ・バンドが都市で演奏していて、キャノン・ジャグ・ストンパーズCannon’s Jug Stompersのガス・キャノンGus Cannonがこのショーでのキャリアが長かった。
当然のことだが、これらのグループはすべて、都市の金持ちの白人が催すパーティのエンターテインメントとして引っ張りだこだった。
こういったことはゆっくりと進展し、すべてが同じ場所で同じ時期に起こったのではない。というのは、マイノリティが興味を持つことに、少しでも関心を寄せるマスメディアはなかったし、まったく進展のなかった場所もあった。しかし、第1次世界大戦終了直後、これらの新しいサウンドは、1920年代に始まってアメリカン・ミュージックのはっきりしたうねりとなって到来した大きな変化として大量に現れた。