2枚目のレコード「ティアーズ・オン・マイ・ピローTears On My Pillow」はチャート4位を記録し、1958年にリリースされた「トゥー・カインズ・オブ・ピープル・イン・ザ・ワールドTwo Kinds of People in the World」(チェスターズのメンバーが作った)は、グループにとって全米のビッグ・ヒットとなった。
このレコードは1958年にアポロ・レーベルから初登場した。多少ややこしいが、彼らはエンド・レコードのプロデューサー、リチャード・バレットRichard Barrett(シンガー、ソングライター)と関わり、1958年にエンド・レーベルから「インペリアルズThe Imperials」としてレコードがリリースされている(エンドはチェスターズという名前に不満で、当時インペリアルスに変更した)。
フリードが自身のラジオ番組で「ティアーズ・オン・マイ・ピロー」をかけた際、インペリアルズThe Imperialsをリトル・アンソニー&インペリアルズLittle Anthony and The Imperialsと呼んだことも混乱を招いた。
(その夜のフリードの動機の真意は誰も突き止めていない)。しかし、その名前は稲妻のように流行し、エンド・レコードのセカンド・プレスの「ティアーズ・オン・マイ・ピロー」はリトル・アンソニー&インペリアルズとなった。(コレクターだったら、このレコードを手に入れて大はしゃぎするはずだ)。数年後、フリードはラジオ番組でアンソニーを「リトル・アンソニー」と呼び始めた理由を覚えていなかった。デュポンツとしてパラマウント劇場に出演した際、フリードがアンソニーをリトル・アンソニーと呼んでいた日のことを、アンソニー・グーダインは覚えているようだ。その時、フリードがリトル・アンソニーと呼んでいたのは、ティーンエイジャーにしては小柄に見えたたからだ。
「ティアーズ・オン・マイ・ピロー」は100万枚以上のレコードを売り上げ、50年代で最も長い間売れたラブソングとなった。「ティアーズ・オン・マイ・ピロー」の後、「シミ・シミ・コ・コ・バップShimmy Shimmy Ko Ko Bop」(アンソニーの嫌いな曲)がチャート24位に入るまで2年かかった。
60年代に大ヒットを連発できたのは、才能あふれるソングライター、テディ・ランダッツォTeddy Randazzoの曲をレコーディングする幸運に恵まれたからだ。
1992年、オリジナル・メンバーは全米ツアーで再結成し、今日もリトル・アンソニー&インペリアルズは、ロックンロール誕生の音楽を守り続けている。彼はロックンロール誕生の真のパイオニアである。彼はロックの殿堂入りしている。リトル・アンソニー&インペリアルスは、ネオ・ドゥーワップ時代のグループとみなされている。