この旅先での孤独な生活が、1959年の次の1位曲「ロンリー・ボーイLonely Boy」のインスピレーションを与えた。
「ロンリー・ボーイ」の前に、アンカは「君は我が運命You Are My Destiny」(アンカの自作)でビルボード・チャート7位を獲得している。
1959年、アンカは4曲を書き、すべてビルボードでトップ10入りを果たした。「あなたの肩に頬うめてPut Your Head On My Shoulder」2位、「しのび泣く時It’s Time To Cry」4位、「パピー・ラブPuppy Love」2位、「マイ・ホーム・タウンMy Home Town」8位だった。
「パピー・ラブ」は、長年多くの話題を呼んできたのだが、それは、アンカがアネット・ファニセロAnnette Funicelloへの愛を表現するために書いた曲だからであり、アネットが1959年に10代で出した大ヒット曲「トール・ポールTall Paul」はビルボード・チャートで7位を記録した。
彼女は1955年からディズニー・マウスケティアDisney Mouseketeerに所属し、ディズニー・スタジオと映画製作の契約を結んでいた。アネット・ファニセロは2013年に亡くなった。
ヒット・レコードを作ることは、50年代から60年代にかけて、10代の映画スター(シェリー・フェブレーShelley Fabaresの「ジョニー・エンジェルJohnny Angel」)がやっていたトレンドだった。
ウォルト・ディズニーWalt Disneyは彼ら(ポールとアネット)の濃密な関係(結婚への恐れ)を問題視し、この関係を解消するために彼(ディズニー氏)にできることをした。(彼女のキャリアを脅かした)
ポールは、ロックンロール誕生の終わり頃、1961年に最後のヒット曲「涙のダンスDance OnLittle Girl」を書き、ビルボード・チャート10位を記録する。
彼は、ビルボード・チャートにランクインした60以上の曲を書き、レコーディングした。1958年にバディ・ホリーがレコーディングした「イット・ダズント・マター・エニモアIt Doesn’t Matter Anymore」を作った。
ジョニー・カーソンJohnny Carsonの「トゥナイト・ショーTonight Show」のテーマ曲も書いた。アンカは間違いなく、ロックンロール誕生のシンガー、ソングライターとして重要な役割を担った。
彼はソングライターの殿堂入りしている。ロックンロールのソングライター、シンガーとしての一連の作品から、アンカはロックの殿堂入りに値する」。