ラバーン・ベイカーLaVern Baker(1929-1997)イリノイ州シカゴ
ラバーン・ベイカーはシカゴのサウスサイドでデローレス・ウィリアムスDelores Williamsとして生まれた。ジャズ、ブルース、リズム&ブルースを融合させられる黒人シンガーだった。ベイカーは1949年にレコード契約を結び、「リトル・ミス・シェア・クロッパーLittle Miss Share Cropper」と呼ばれた。
1953年にアトランティック・レコードAtlantic Recordsに移籍する前は、RCA、ナショナルNational、コロンビアColumbia、オーケーOkeh、キングKingでレコーディングを行なった。1952年にキング・レコードで「トライングTrying」を録音。この曲はリズム&ブルース市場で成功を収め、白人グループ、ヒルトッパーズThe Hill Toppersのカバー・レコードとして取り上げられ、ポップス市場でもヒットした。
1953年にアトランティック・レコードと契約した。
アトランティックにいたベイカーはリズム&ブルース・マーケットでいくつかビッグ・ヒットを放ったが、彼女の大ブレイクは1955年の「トゥイードリー・ディーTweedlee Dee」で、ビルボード・チャート14位を記録した。
1955年1月、「トゥイードリー・ディー」はアメリカの白人ティーンエイジャーが最も買い求めたレコードのひとつだった。しかし、ポップ・クルーナーのジョージア・ギブスGeorgia Gibbsがカバーして、ベーカーの売り上げを上回り、ビルボードで1位を獲得した。
これが、アメリカにおけるロックンロール誕生のまさに始まりだった(白人のティーンエイジャーがこのリズム&ブルースをハイジャックしたのだ)。ラバーン・ベイカーは1957年の「ジム・ダンディーJim Dandy」で17位、1958年の「アイ・クライド・ア・ティアーI Cried A Tear」で6位、1963年の「シー・シー・ライダーSee See Rider」(チャック・ウィリスChuck Willisもレコーディングし12位)で34位と、すべてビルボードにチャートインした。
チャック・ベリーChuck BerryやコースターズThe Coastersのように、ベイカーはアラン・フリードの映画『ロック、ロック、ロックRock, Rock, Rock』や、『ミスター・ロックンロールMr. Rock And Roll』に出たノベルティ・ソングで成功を収めた。
彼女はロックンロール誕生のパイオニアだった。ラバーン・ベイカーは1997年に死去。ロックの殿堂入りを果たした。