チャック・ベリーChuck Berry(1926-現在)ミズーリ州セントルイス
恵まれた中流階級の家庭に生まれたチャック・ベリーは、学校で音楽の興味を追求するあらゆる機会を与えられた。父親は建設業者、母親は学校の校長だった。ベリーは夏に高校で初舞台を踏んだ。子供の頃は教会で歌い、高校ではギターの弾き方を学んだ。高校在学中に凶器を使った強盗で有罪判決を受け、1944年から1947年まで刑務所に入った。21歳の誕生日を迎える前に出所し、家に戻った。その後、ベリーは結婚し、一人の子供をもうけた。家族を養うため、ベリーは工場労働者や自分のビルの管理人などいくつかの仕事を経験した。
その後、50年代初めに彼は学校に戻り、美容術を学んだ。成績がよくていくつかの仕事に就くとともに、セントルイス近郊のクラブで演奏し、家計の足しにしていた。1955年にシカゴに行き、マディ・ウォーターズMuddy Watersに会ったところ、彼はベリーに、黒人リズム&ブルースを専門に扱う初期黒人レーベルの独立系レコード会社オーナー、レナード・チェスLeonard Chessを訪ねるよう勧めた。
ベリーは家に帰り、いくつかのデモを持ってシカゴに戻った。ベリーは自分が書いた「アイダ・レッドIda Red」という曲をレコーディングしていた。チェスは歌詞の一部とアレンジを変え、1955年に「メイベリンMaybellene」というシングルとしてリリースした。
数週間のうちに、このレコードはビルボードで5位まで上昇した。1956年、フリードAlan Freedはベリーを多くのステージ・ショーに起用し、
フリードの映画『ロック、ロック、ロックRock, Rock, Rock』、『ドント・ノック・ザ・ロックDon’t Knock the Rock』、『ゴー・ジョニー・ゴーGo Johnny Go』の3本に出演させた。
1956年、ベリーは「ロール・オーバー・ベートーベンRoll Over Beethoven」を作曲、リリースし、ビルボード29位を記録。1955年、ベリーはフリードの名前を「メイベリン」の作者として載せることに同意した。
1957年、ベリーは「スクール・デイSchool Day」を作曲・リリースし、ビルボード3位を記録した。
3枚の黒人レコードがこれほど早く白人ポップス市場に進出したのは、非常に異例のことだった。その理由は自分の言葉遣いだとベリーは言う。人々は私の言葉を良く理解できる。ベリーはまた、ロックンロール・ミュージックが今や10代の白人市場であることも理解していた。彼の曲は、50年代の変わりゆく世界に対応しようとする白人ティーンエイジャーについて歌ったものだった。
1962年、ベリーは未成年の少女(14歳)を州外に連れ出した罪で再び刑務所に入ることになる。服役中は、ハーモニー・グループと歌い、ボクシングも少しやった。出所後は、ショービジネスに戻った。ベリーは刑務所に入ったときよりも依頼が多くなった。チェス・レコードでヒット曲を書いてリリースし、アメリカ中のステージ・ショー・ツアーに引っ張りだこだった。ベリーはセントルイスで高級ナイト・クラブも経営した。