チャーターしたバスは機械的な問題で、開演の2時間前に到着することになった。バディは故障したバスに乗るのに疲れ、ミネソタ州ムーアヘッドでの次の公演に行くのに飛行機をチャーターできないかと尋ねた。サーフ・ボールルームの支配人は、近くの町の飛行機会社を知っていて、フライトが可能か電話をかけた。
オーナーにはつながらなかったが、知り合いのパイロットに電話し、次の目的地までグループを飛行させることのOKをもらった。その飛行機はパイロットを含めて4人しか乗れず、バディが優先された。
2席は取り合いになって、リッチー・バレンスとビッグ・バッパーがトスに勝ち、飛行機に乗った。
トミー・オールサップTommy Allsupとウェイロン・ジェニングスWaylon Jenningsはトスに負けた。
ジェニングスはホリーに、「お前の忌まわしい飛行機が墜落するのを願うよ」という負け惜しみをと言った、と何年も経ってから語ったが、このことは残りの人生に付きまとった。飛行機は2月3日午前1時ごろマディソン・シティ空港Madison City Airportを離陸し、数分後に墜落、機内の全員が死亡した。墜落による火災がなかったため、翌日まで誰も飛行機が墜落したことを知らなかった。知らされた内容は、1959年2月3日の午前1時にアイオワ州メイソンシティを出発した飛行機は、離陸してすぐに墜落し、3人全員が死亡し、「音楽が死んだ日」としていつまでも知られている。
バディ・ホリーは22歳、リッチー・バレンスは17歳、J.P.リチャードソンは28歳だった。
ツアーは、バディ・ホリーの代わりにボビー・ビーBobby Vee、他のメンバーの代わりにジミー・クラントンJimmy ClantonとフェビアンFabianを迎えて続けられた。
1959年、トミー・ディーTommy Deeがキャロル・ケイ&ティーン・エアーズCarol Kay and The Teen Airsと共にリリースした「スリー・スターズThree Stars」(トミー・ディー作)は、チャート11位を記録。
同年、エディ・コクランもこの曲をレコーディングしている(チャート入りはしていない)。
eddy cochran three stars
1972年、ドン・マクリーンDon McLeanはバディ・ホリーへのトリビュートである「音楽が死んだ日」から始まる「アメリカン・パイAmerican Pie」を書き、レコーディングする。
ホリーは、ロカビリー・ミュージックとロックンロールの誕生を支えた最初の創造的で革新的なアーティストの1人だった。バディはロックンロールとソングライターの殿堂入りをしている。