バディ・ホリーは1958年にクリケッツと分かれた。クリケッツはテキサスが恋しくてホームシックになり、ホリーはレコーディング、出版、音楽プロデュースのキャリアを追求するためにニューヨークに残りたかったのだ。1957年、ホリーはコーラル・レコードから「ペギー・スーPeggy Sue」(アリソン、ペティ、ホリーの作)をリリースしたが、レコードのラベルにはクリケッツの名前はなかった。
この曲はビルボード・チャートで3位を記録した。その後もコーラルから「レイブ・オンRave On」(ウエスト、ピルマン、ペティ)、「アーリー・イン・ザ・モーニングEarly In the Morning」(ダーリンDarin、ハリスHarris)、そしてホリーの死後1ヵ月後にリリースされた「イット・ダズント・マター・エニモアIt Doesn’t Matter Anymore」(アンカ)の3曲がチャートインした。
彼らのレコードはコーラル・レーベルとブランズウィック・レーベルから交互にリリースされ、1957年から1958年にかけてコーラル・レーベルのレコードはバディ・ホリーに、ブランズウィック・レーベルのレコードはバディ・ホリー&クリケッツになった。バディ・ホリーと、バディ・ホリー&クリケッツは40枚のシングルをリリースした。
1958年、ホリーはマリア・エレーナ・サンティアゴMaria Elena Santiago(ピア・サザン・ミュージックPeer Southern Musicの受付嬢)と出会い、その年に結婚した。
ホリーは「トゥルー・ラブ・ウェイズTrue Love Ways」を書いて彼女に捧げ、1958年にリリースされた。
ホリーは同じ年に「レイニング・イン・マイ・ハートRaining In My Heart 」をレコーディングし、フル・オーケストラをバックにした最初のロカビリー・ソングとなった。
1959年、ホリーはアメリカ中西部での『ウィンター・ダンス・パーティー・ツアーWinter Dance Party Tour』への出演を渋々承諾した。
彼はビッグ・ボッパーthe Big Bopper(J.P.リチャードソン J.P. Richardson)やリッチー・バレンスRitchie Valensと共演することになった。
1959年2月2日、3人のロックンロール・スター、バディ・ホリー、リッチー・バレンス、ビッグ・ボッパーがアイオワ州クリア・レイクのサーフ・ボールルームthe Surf Ballroomで公演を行った。
真夜中を少し過ぎて、3人のスターはチャーター機で飛び立ったが、離陸直後に墜落し、パイロットとバディ・ホリー(「ペギー・スー」)、リッチー・バレンス(「ドナDonna」)、ビッグ・ボッパー(「シャンティリー・レースChantilly Lace」)(本名P・リチャードソン P. Richardson)が死亡した。