1955年までには、白人のティーンエイジャーが彼の音楽に強い関心を示すようになり、白人のティーンエイジャーを中心にレコードの売り上げが伸びていった。ジュークボックスのオーナーでさえ、ポップスのレコードがリズム&ブルースのレコードの後塵を拝していると報告していた。ドミノには、今や全米でライブを行ってほしいという要望があった。ドミノのショーは、当時の他の黒人パフォーマーよりも多くの騒動を引き起こしたと言われている。1955年5月22日、コネチカット州ブリッジポートの警察は、ドミノの音楽が暴動を引き起こす前にショーを中止した。ドミノのおかげで、白人ティーンエイジャーはアメリカのポップ・ミュージックよりもブラック・ミュージックに興味を示すようになった。
1955年、ドミノは自作の「エイント・イット・ア・シェイムAin’t It A Shame」をレコーディングする。
このレコードは、新しくできたビルボードのポップ・チャートに初登場し、10位を記録した。彼のレコードはすぐにポップ・クルーナーのパット・ブーンによって「エイント・ザット・ア・シェイムAin’t That a Shame」としてカバーされた。
ブーンのバージョンはビルボードの1位にチャートされた。ブーンは間違いなくドミノのレコードの売り上げを減らしただろう。ドミノは後に「あれは痛かった」と語っているのだが、なぜなら、書くのに2か月かかったからだ。
リッキー・ネルソンはドミノに挑んだ最後のアーティストとなる。ネルソンはドミノの1957年の「アイム・ウォーキンI’m Walkin’」を再レコーディングし、ビルボード17位にチャートインした。
ドミノの「アイム・ウォーキン」は100万枚を売り上げ、ビルボード4位にチャートインした。これが、ドミノの楽曲のカバ―や再録を試みた最後の作品となった。