トミー・ボイスTommy Boyce(1939~1994)バージニア州シャーロッツビル、ボビー・ハートBobby Hart(1939~現在)アリゾナ州フェニックス。
ポール・サイモンと同様、このソングライター・チームがソングライターとして認知されるようになったのは、人気歌手グループ、モンキーズThe Monkeesのために曲を書き始めてからである。
ハートは高校卒業後、アメリカ陸軍に所属した。除隊後、ハートは歌手になろうとしてロサンゼルスに移った。ボイスはハートと同じ時期に歌手としてのキャリアを求めていた。
何度も断られた後、彼は父親からソングライティングの道を探すように言われた。ボイスは「ビー・マイ・ゲストBe My Guest」という曲を書き、ファッツ・ドミノに送った。
ファッツはボイスの曲をレコーディングし、この曲はファッツにとって大ヒットとなって、1959年のビルボード・チャートで8位を記録した。ボイスはレイ・ピーターソンRay Petersonとカーティス・リーCurtis Leeのために作曲する機会を得て、ビルボードチャート7位となった「プリティ・リトル・エンジェル・アイズPretty Little Angel Eyes」(リーの曲)と「アンダー・ザ・ムーン・オブ・ラブUnder the Moon Of Love」(リーの曲)は両方ともリーとの共作である。
ボイスは1959年、ロサンゼルスでソングライター志望のハートと出会った。ボイスはピーターソンとリーのために作曲する目的で、パートナーのハートを残してニューヨークに移った。ハートはやがてブリル・ビルディングでボイスと一緒にソングライターになる。1964年、彼らはジェイ&アメリカンズJay and The Americans.のために「カム・ア・リトル・ビット・クローサーCome A Little Bit Closer」を書いた。
(リーバーとストーラーは詩の最後を書いたが、クレジットされることはなかった。)この曲はビルボード・チャートで3位を記録した。
彼らは1964年にもチャビー・チェッカーChubby Checkerの「レイジー・エルシー・モリーLazy Elsie Molly」でビルボード40位を獲得した。
2人とも、60年代、70年代、80年代と多作なソングライターであり続けた。ふたりともロックンロールの誕生の一翼を担ったと言える。ボイスは1994年に自殺した。