アトランティック・レコードとブランズウィック・レコードは、この曲をダーリン&リンキー・ディンクスDarin and The Rinky Dinks(ブランズウィック)とディング・ドングス(アトランティック)でリリースした。
アトランティック・レコードはブランズウィックを訴えると脅し、ブランズウィックは即座にレコード生産を中止した。噂では、アトランティック・レコードはダーリンに、自分たちはリズム&ブルースとロックンロールのビジネスをしているのだから、ヒット曲を出さなければアトランティック・レコードでの「歴史」になると言ったらしい。ダーリンは家に帰り、15分で「スプリッシュ・スプラッシュSplish Splash」を書いた。
1958年にリリースされたこのレコードは、アトランティック・レコードで100万枚以上を売り上げ、ビルボード・チャートで3位を記録した。アトランティック・レコードからプレッシャーを受けたダーリンは、1959年、アトランティック・レコードのために、これまた数百万枚を売り上げ、ビルボード・チャート1位を記録した「ドリーム・ラバーDream Lover」をはじめとして、さらなるヒット曲を生み出した。
同年(1959年)、「マック・ザ・ナイフMack the Knife」(ダーリンが作った曲ではない)をレコーディングし、100万枚以上を売り上げてビルボード・チャートで1位を獲得した。
さらに重要なことに、このレコードは1960年のグラミー賞レコード・オブ・ザ・イヤーthe Grammy Award for record of the yearを受賞した。ダーリンはまた、1960年のグラミー賞最優秀新人アーティスト賞にも選ばれた。それ以来、このレコードはグラミー賞の殿堂入りを果たしている。ダーリンは「マック・ザ・ナイフ」に続き、自作曲ではない「ビヨンド・ザ・シーBeyond the Sea」を発表した。この曲は1960年のビルボード・チャートで6位を記録した。
ダーリンはもはやロックンロール・アーティストではなく、(シナトラと並ぶ)ポップ・スターであり、ニューヨークのコパカバーナthe Copacabanaで演奏していた(ダーリンはロックンロールを嫌っていた)。
ダーリンは、シングル・レコードを買うティーンエイジャーと、アルバムを買う大人の間のギャップを埋めた最初の若いシンガーとなった。